■節子への挽歌2297:ホモ・サケル的な生の幸せ
節子
ホモ・サケルに言及しましたが、それにつながる議論として、人の動物化という議論があります。
きわめて大雑把に言えば、最近、自分では何も考えずに与えられた環境を受動的に生きている人が増えてきていることが、動物化の意味です。
収容所型ホモ・サケルに対して、テーマパーク型ホモ・サケルと言ってもいいでしょう。
実は、このブログの時評編では、このことが基本テーマの一つでもあります。
自分が伴侶を失って、一時、まさに収容所型ホモ・サケルに陥ってから、そうしたことが改めてよく見えてきたこともありますが、それは私の学生の頃からの生き方とも言えます。
私が節子と結婚したこと自体も、その現れですし、会社を辞めたのもその現れです。
ともかく用意されて先が見えている軌道は走りたくはなかったのです。
自分をしっかりと生きることとホモ・サケル的生き方は、正反対なのかもしれません。
アガンベンのホモ・サケル論を最初に知った時には、そう思いました。
しかし、その後、どうもそうではなくて、社会に合わせて生きるビオス的な生はむしろ無主体的な生き方であって、社会から逸脱して生きるゾーエ的な生こそが、主体的に生きていることだと思い始めています。
まだ消化不足で、自分でも考えが整理できずに、混乱していますが、この挽歌を書き続けながら、なんだかそんな気がしてきているわけです。
自分に素直に生きるということは、いったいどんな生き方なのか、実はわかったようでよくわかりません。
まあそんな小難しいことはどうでもいいのですが、このことは「幸せ」という問題につながっていきます。
主体的に生きることが幸せなのか、社会の流れに乗って(強い者には巻かれて)、自己にこだわらずに生きることが幸せなのか。
それは一概には決められません。
しかし、節子がいなくなってからは、テーマパークさえもが楽しめなくなっています。
つまり世間的な喜びへの感受性がなくなっているのです。
たぶん宝くじの7億円が当たっても、それほどうれしくはないでしょう。
「幸せ」をもはや手に出来なくなったことが、実に不幸せなことなのですが、そもそも「幸せ」という概念そのものが、ビオス的な概念なのでしょう。
猫には幸せはあるかもしれませんが、水槽の中のめだかにはたぶん「幸せ」などという考えはないでしょう.
言い換えれば、いつも「幸せ」なのです。
「幸せ」はそれを失って初めて気がつく概念なのです。
だとしたら、ホモ・サケル的な生もまた、幸せなのかもしれません。
そもそも「幸せ」とは無縁な生だからです。
幸せと不幸せは、まさにコインの表裏です。
今の私は、幸せなのでしょうか。
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コメント
佐藤様 おはようございます
佐藤さんの文章を読んでいると、心が落ち着くのは何故なんでしょうか?
理由など必要ないのかもしれません
佐藤さんの文章を読み心が平らになるなら、それはそれで素直に受けいれるだけ・・
幸せも、自らが心平穏ならそれはそれで幸せなのかもしれませんね
幸せは数限りなくあるのでしょうか
妻と出逢った時の幸せ感、子供が出来た時の幸せ感・・ひとつひとつが幸せと感じた時、私たち二人は貧乏真っ只中。
(出逢った時の妻は、普通の家庭のお嬢さんでしたから、貧乏は私だけでしたが)
初めてのお産の費用を、妻の実家に頼らなければならないほどの貧乏だった若い夫婦でしたが、やはり最高の幸せでした。
貧乏であっても将来が見えなくとも、「幸せ」はやってくる
この小さな幸せが積もり積もって、ほんとうの幸せがやってくるのは人生の最終章ではないのでしょうか
もし、ドイツの強制収容所のような無念の最後を迎えたとしても、その以前の人生に小さな幸せが幾つもあったとすれば、それは幸せな人生だったと思えるかもしれません
佐藤さんも私も、まだ先のあるはずの妻の命をとられてしまったことは、強制収容所に入れられたようなものですね
それでも、幸せだったと思えることは、数限りなくありました。
幸せな男だったと心より思えます。(佐藤さんも同じでは?)
強制収容所の私は、今も幸せと言えるのかは分かりませんが、ひとつ言えることは、「今さら幸せになることなど強く望んではいない」とハッキリと断言できます。
ひとりでは「真の幸せ」には慣れないことが、理解できているからでしょうね
妻と言う尽くしてくれた偉大な人がいなくなった次元には、幸せと言う文字は存在しなくなってしまいました。
ひとりでは幸せになる自信もありませんし、幸せになりたいとも思わなくなりました。
妻と二人でいることそれたけで、「幸せ」だったから・・・
投稿: 山陰太郎 | 2013/12/19 09:33
山陰さん
いつもありがとうございます。
この10日ほど、風邪をひいたり、気分的にダウンしたりで、返信もせずにすみません。
コメントの投稿があると、別にメールで私のところに連絡が届くので、コメントはきちんと読ませてもらっています。
いろいろと世界を共有しているようですね。
ようやくメンタルスランプから脱しつつあります。
困ったもので、時々、こうした穴に落ち込んでしまうことがあるのです。
そこに陥った時には、素直に陥っているようにしています。
以前コメントにあった「最後の顔」ですが、私もまったく同じでした。
とてもきれいで、葬儀に来た人たちに、ぜひ見てほしいと言って、娘に怒られてしまいました。
投稿: 佐藤修 | 2013/12/19 12:39