■節子への挽歌2284:ピュシスの乗り物
昨日、魂の話を書きました。
一昨日は、その魂の元になるピュシスに言及しました。
そこで書いた通り、ピュシスについて少しだけ調べてみました。
手元の本で記載を見つけたのは、岩波哲学・思想事典です。
久しぶりにこの事典を開きました。
かなりていねいな説明がありました。
それによると、「万物がそこから生成し、そこへと消滅する万物の根源」とあります。
同時に、それは生命の元であり、それ自身が生きたものとも書いてあります。
古代ギリシア人は、すべての存在はピュシスから生まれピュシスへと没すると考えていたようです。
アリストテレスは、「自己自身のうちに運動と静止の原理を持つもの」を自然的存在者と規定しましたが、自然的存在者に内在する、そうした力の源泉こそがピュシスなのです。
わかったようでわかりにくい説明ですが、ネットで調べたら、「人間の主観を離れて独立に存在し、変化する現象の根底をなす永遠に真なるもの」という説明に出会いました。
このほうがわかりやすいかもしれません。
要は、人智を超えた絶対的なもの、それがピュシスです。
しかし、この説明では、自分の固有性を支えるものは、自分の主観を離れていることになります。
つまり、魂とは自分とは別のものと言うことになりかねません。
となれば、自分とは「魂の乗り物」ということになります。
「生物個体は遺伝子が自らのコピーを残すために一時的に作り出した「乗り物」に過ぎない」と主張する、利己的な遺伝子論を思い出します。
ピュシスと遺伝子がつながってきます。
ところで、アリストテレスは、人にはそれぞれ固有のピュシスがあると言っていますから、私のピュシスは私だけのものと言うことでしょう。
ここで疑問が生じます。
ピュシスとは生命の数だけ存在するものなのか、仏教でいう「大きないのち」のように一つのものなのかという疑問です。
そして、没したピュシスはどうなるのか。
またどこかに再現してくるのでしょうか。
もしそうであれば、輪廻転生ということになります。
しかし、生命の数が増えているとしたら、ピュシスもまた分裂増殖していることになります。分裂するのであれば、統合することもあるでしょう。
だとしたら、固有と言っても、その時々においての固有ということになります。
つまり、没したピュシスは一度、固有性を失い、大きなピュシスに統合されていくと考えたほうがいいでしょう。
生命の元である「大きなピュシス」から、「小さなピュシス」が生まれ、さまざまなプシュケー、魂を一時的に生み出すというのであれば、わかります。
これだと、仏教でいう「大きないのち」とつながっていきます。
結局、古代ギリシアであれ、仏教であれ、最新の科学技術であれ、行きつく先は同じなのかもしれません。
そしてそれは、個人の実感とも繋がっているのかもしれません。
しかし、自分が、自らの主観(意識)とは別の存在(ピュシス)に動かされているというのは、どう受け止めるべきでしょうか。
納得できるようで、納得できない話です。
でもまあ、せっかく乗り込んでくれたのですから、私のピュシスと仲良くやっていくしかありません。
風邪はだいぶよくなりました。
今日は出かけなければいけませんが、大事にしていれば、明日は治るでしょう。
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コメント
佐藤様 こんばんは
今日は仕事はお休みと言うことにしました。
社団法人の理事長さんからのご相談事を聞き、先ほどからは無駄な時間を過しております。
このような自由時間がとれると、いろいろ妻のことを考えてしまいます。
以前は休日が待ち遠しいと思いながら過ごし、今は休日は恐日になってしまいました。
佐藤さんも体調が良い方に進んでおられるようで、安心しました
さて、自由時間になると妻の事ばかりが蘇えってきたり、無念さが大きく募るばかりの時間が流れていきます
佐藤様のお話からすれば、子供のお遊びのような話ですが、
私は、仏教や神教、精神論から哲学、そして理論物理などを、ひとつの入れ物に入れてごちゃごちゃに考えております。
まあ 言ってみれば自分の都合の良いところだけを抜き出しては、納得しているようなものです。
かいつまんで申し上げるとすれば
魂とは、素粒子のように小さな単細胞であり、万物の源は皆同じなのではと思っています
太陽も星も、地球も、土も水も雨も雲も、植物も昆虫も動物も人間も・・・魂(素粒子のような)から生成されたのではと考えています。
ですので、土も水も星も地球も、何時の日にかは肉体を脱ぎ捨てる時が来て、魂(素粒子)だけになってしまうのでしょうね
しかし、魂は宇宙誕生から増えることも減ることもないのではないでしょうか・・少なくとも現在、宇宙と言われている世界では。
ただ、魂は輪廻するものもあれば、しないものもあるのかもしれません
そして、魂は何かの繋がりで一団をつくり、最少の繋がりは一対の単位にまで、なるのかもと考えております。
魂のように、思考や視覚、感覚などのない単細胞が、何を基準に気が合う魂同志となるのかは考えも及びませんが、電子による結びつきなのか、波長による結びつきなのか、難しい所です
間違っても、恋心を抱いた魂同志ではないでしょうね
魂が何らかのきっかけによって肉体を身にまとった時、遺伝子や脳や目や耳などを形成し、ある魂は花になり、ある魂は犬になり、ある魂は水になるのかもしれません
何になって生まれ出て来ても、また何十年後、何百年後、何億年後には、元の居場所に帰ることになるのでは・・・ないのかな、なんてことを考えたりしております。
もし、もしも妻が私のことを、今も思っていてくれるなら、すぐ傍に居てくれたり、たまには思い出の場所に行ったりしているのかもしれません
そうであれば、ほんとうに幸せなんですが、そんなうまい話は夢物語でしょうね
投稿: 山陰太郎 | 2013/12/04 21:38
佐藤さん。今晩は。挽歌のコメント欄では「お久しぶり」です。
ビュシス、という言葉、初めて出会いました。古代ギリシアも、仏教も、最新の科学技術も、私にとっては縁遠い内容なのですが、とても惹きつけられました。「ビュシスとは何か」という問いは「心とは何か」という問いに通じるような気がしたからです。試しに文中の「ビュシス」という言葉を「心」と置き換えて読むと、すらすら読めてしまうのです。現在11歳になる私の娘は、7歳頃まで胎内記憶とそれ以前の記憶(天使時代や前世まで遡る記憶)を話してくれることがあったのですが、「心」について次のように言っていました。その内容が、佐藤さんの今日の挽歌と似ているのです。
頭の方だったり、胸の辺りだったり、お腹の辺りだったり、心がある場所は人それぞれ違うけれど、みんな一人ひとつずつ持っている。心と魂は意味が違う。光る魂を入れておくポーチみたいな入れ物が心。光のサイズは人それぞれで、小さい人もあれば、大きい人もあるけれど、心はどんなサイズの光も入れることができる。心の中には自分が考えた言葉や、話した内容や相づち等も、しまってあって、時々溢れそうになることがある。思い出の風景や出来事も全て心にしまってある。心は宇宙みたいに果てしない。人間は、ひとりにひとつずつ心があるけれど、天使は、みんなでひとつ。
投稿: 埋田 | 2013/12/05 00:24