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2013/12/19

■政治の本質

ハンナ・アレントの「人間の条件」文庫版の解説で、政治学者の故阿部齊さんは、「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示することに、政治の本質があるといえよう」と書いています。
阿部さんは数度しかお目にかかっていませんが、私が最初に「民主主義」について学んだ人の一人です。

猪瀬都知事が辞職を決めたようです。
徳洲会との関係疑惑が表面化してからの猪瀬さんの言動から、いろいろなことを学ばせてもらいました。
そして、思い出したのが、冒頭の阿部さんの言葉です。
「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示する」場で、人の本性は現れます。
そして同時に、人の本性は磨かれます。
磨かれる可能性があるというべきかも知れませんが。
そうした場で育っていくのが、そして広がっていくのが、「健全な常識」だろうと私は思っています。

アレントが「人間の条件」で危惧していたのは、そうした人の本性の「現れの場」としての公的な場が、消滅していくことでした。
人の現れの場がなくなれば、隠れた人の行動が社会を支配しだします。
そして、開かれた場でも、自分を開示せずに、取り繕い、装う人が増えました。
それでは、「現れの場」にはならず、世界全体が「私的な場」になっていく恐れがあります。
「社会」と言う概念は、時に〈公的〉であり、時に〈私的〉です。
アレントは、「社会」という言葉にあまり肯定的ではありません。
それは定義次第で意味が変化する言葉ですから、言葉を吟味しながら独自に使い込むアレントには好ましい言葉ではなかったはずです。
私も、その点に共感しています。

猪瀬さんの著作は好評のようです。
しかし、文字に書く行為は私的な行為です。
そしてそれを読んで解釈する行為もまた私的です。
ただ書き手と読み手を媒介する著作物は、極めて社会的な存在であり、公的な場への影響も大きいです。
今回の猪瀬騒動が教えてくれたのは編集された著作物とライブな言論とは別物だと言うことです。
万人に見られ聞かれながら、ライブに展開される言論によって公示される自己と、編集された著作物によって自己を公示される自己とは、似て非なるものだということです。
そして、政治とは、前者が軸になるべきだと言うことです。
書物では、主体的には政治は変えられません。

国会での審議の状況を、私はよくテレビで見ます。
退屈なことが多いのですが、そこに人の本性が垣間見られます。
高名な政治家や評判のいい政治家も、本性が見えてくるとイメージが変わることがあります。
国会での議論が、茶番劇ではなく、「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示する」場になれば、日本の政治も変わるでしょう。

醜態を見せる政治家と醜態を隠しおおせる政治家とでは、私は前者を好みます。
醜態とは無縁な、健全な政治家を育てていく場は、今の日本には欠落しているように思います。

最近、ある高齢者から、私の考えは「健全だ」とほめられました。
このブログの読者には共感できないでしょうが、私はそれを真に受けることにしました。
その理由を考えていたのですが、それはもしかしたら、「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示」しているからではないかと思いつきました。
「万人に見られ聞かれながら、言論によって自己を公示」していると、行動も健全になれるように思います。
猪瀬さんが、健全に戻れそうなので、よかったです。
私には、猪瀬さんと同じ種族のように見える安倍さんは、いつ健全に戻れるでしょうか。
場違いの世界にいることは決していいことではありません。


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