■節子への挽歌2306:「夢よりも深い覚醒」
節子
「夢よりも深い覚醒へ」という本で、大澤真幸さんは、3.11を体験した私たちに必要なのは、「夢から現実へと退避する覚醒ではなく、夢に内在し、それを突き抜ける覚醒、夢よりもさらに深い覚醒である」と書いています。
普通は、あまりに受け容れがたい現実に直面して、夢に逃避しがちな生き方への警告をするのですが、大澤さんは逆に「3・11の(悪)夢を突き抜けるような仕方で、覚醒しなくてはならない」と書いているのです。
大澤さんのメッセージは、いつも難解なので、このメッセージも私自身、消化できてはいないのですが、「夢よりも深い覚醒」という言葉には強く惹かれるものがあります。
大澤さんのこの言葉は、挽歌には無縁なのですが、この言葉がずっと心に引っかかっています。
普通に考えれば、節子がいなくなってからの私は、現実感覚をかなり失っていますので、現実への退避はしていませんが、同時に、夢への逃避もしていません。
現実も夢もない、いわば宇宙の隙間である「亜空間」に陥ったような浮遊感の中で、過ごしているというような感覚なのです。
亜空間での生活は、しかし、悪いことばかりではありません。
以前とはまったく違った視点で物事を考え、世界が見えるようになったとともに、この数年間、考える時間がたくさんあったのです。
考えるだけではなく、これまで体験しなかった体験もしました。
頭で考えていたことを心身で受け止めることもありました。
大仰に言えば、世界がそれなりに見えてきたのです。
もちろん、私なりの世界です。
さらに、これまでの私自身の生き方も、少しだけですが、相対化できたようにも思います。
しかし、そろそろその世界から抜け出ようと思います。
「亜空間」での浮遊状態も、それなりに辛くなってきたからです。
それに、このあたりで目覚めないと、目覚めないまま消滅しかねません。
少しだけ垣間見えてきた私の世界で、もう少し意識的に目覚めるのも意味があるかもしれません。
現実を目指さない目覚めとは難しそうですが、それにしても「夢よりも深い覚醒」とは魅力的な言葉です。
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