■節子への挽歌2288:寒さに気が萎えています
節子
相変わらず心身ともに萎えています。
気候も寒いですが、時代も寒いです。
こう寒くなるとやはり心身をあたためあう伴侶がほしくなります。
自分の小さな世界に逃げ込みたくなるわけです。
私には居心地のよい場所はなくなりそうです。
どこにいても寒い気がします。
この1年程、交流が途絶えていた知人から、あるコンテストで入賞した短いエッセーが送られてきました。
同居していた母を亡くした直後の体験を書いたものでした。
その人らしさがあふれ出た文書でした。
そこに、独り言が増えたと書いてありました。
寒い時代を独りで生き抜くのは気力が必要です。
せめて独り言できる相手がいないとめげてしまいます。
この数日、パソコンに向かう気がせずに、メールチェックしかしないでいました。
パソコンに向かわないと、ついつい挽歌も書けなくなってしまっていました。
私の独り言は、この挽歌ですので、やはり挽歌は毎日書かないといけません。
明日からまた、パソコンに向かいだそうと思います。
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コメント
佐藤様 こんばんは
今夜はこれからお風呂に入り、そのまま就寝ようと思っています。
一人になると考えます。
返事はいいから話だけでも聞いてくれる人がいれば、どんなに幸せだろうかと・・
ともすれば、そろそろ人生に幕が下りてもいいかな・・一瞬ですが頭を過ぎることもあります。
私は子供たちに、「お父さんが入院した時は、一切の治療はしないでくれ」と言い残してあります
看病する者の心の苦しさと肉体的疲労は、想像を絶するものがあることを、妻のことで学習したからです
私は何も子供たちにしてやれなかった代わりに、最後の子供達への優しさを送りたいと考えました。
それは一切の迷惑を子供たちにはかけないでおこうと思ったからです。
もちろん、葬式もしないように言ってあります。
あの世があるのか、はたまた妻に再会できるのかは、逝ってみないと分かりませんが
その時が訪れた日には、妻の元に一秒でも早く逝かせてくれるように頼んであります。
これは悲痛な言葉でも、投げやりな言葉でもなく私の自然な思いから出た言葉でした。
私も写真に向かって「ひとり言」を呟いたり、大声で妻の名を叫んだりもします。
すべて自然のなすがままなのです。
そして心が少しづつですが、平穏になっていきます。
佐藤さんも同じだと思いますが、「妻」というのは、肉体が滅びても、「妻」として存在してくれるものなのですね
私は妻が亡くなって三年弱ですが、愛おしさが年々大きくなっていきます。
佐藤さんのように、六年を超える頃には、どれほど愛おしさが大きくなっているのだろうかと考えたりもします。
その分、切なさも大きくなるのでしょうね
投稿: 山陰太郎 | 2013/12/10 00:26