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2013/12/05

■流行語大賞に思うこと1:「おもてなし」

今年の流行語大賞は4つになりました。
それに関して、少し思いを書こうと思います。
今回は「おもてなし」です。

昨日、フランスのジャーナリストが書いた「ロング・マルシュ」と言う本を読みました。
ロング・マルシュとは「長き歩き」という意味だそうです。
著者は4年かけてシルクロードを歩いたのですが、これはイスタンブールからイランに入るまでの1年目の記録です。
そこにトルコ人のおもてなしに関わる記述が出てきます。
トルコではおもてなしを意味する「ミサーフィル」という言葉があるそうです。
とても示唆に富んでいますので、長いですが、引用します。

私は世界のあちこちを回ったけれども、自分の家に他人を迎えるさいのこれはどの熱烈さ、これはどの飾り気のなさにはトルコ以外ではお目にかかった覚えがない。村では、接待する人の誇りがはかの住民たちにも共有されることに、いつもながら驚かされた。われわれのような「文明化した」国々では、もてなしという観念がしだいに忘れられたり、歪められたりしてきた。
われわれは親戚や友人という狭い範囲の人々をもてなす。その他の人については、それ専用の家、すなわち世界共通で個性のないホテルというものがある。
自分の家でもてなす人々は、ごく親しい人たちでなければ、たいていは「礼儀の応酬」(私はきみにもてなし一回分の「借り」がある)の枠内でか、「週末はうちに来てくださいよ、例の件をまた話しましょう」というような計算ずくの利益のためである。見返りや利益を期待せず、無条件にドアを開け放つことは、繁栄以前の時代の、いまではまれな遺習にすぎない。発見、交流、会話の喜びのために開かれたテーブルは、われわれのもとでもまだ可能だろうか?
いうまでもなく、日本でもミサーフィル的なおもてなしの文化はありました。
四国のお遍路さんや伊勢参りは、そうした文化で支えられていました。
今も残っているところはあるでしょう。
しかし、この本の著者がいうように、「「文明化した」国々では、もてなしという観念がしだいに忘れられたり、歪められたりしてきた」という点においては、日本も例外ではありません。

ところで、この言葉が流行語になったことを喜ぶべきかどうかは迷うところです。
オリンピック招致の時の滝川クリステルさんのプレゼンテーションには大きな違和感がありましたが、改めて「おもてなしの文化」が意識されるのであれば、いいことだと思っていました。
しかし、それが流行語大賞になってしまうと、どうしてもまたかと思わざるを得ません。
「おもてなし」の文化が「文明化」され、「商業化」されていくのは間違いないでしょう。
そもそも「おもてなし」は自らがいうべき言葉ではありません。
そこにオリンピック招致のプレゼンテーションを演出した人の「卑しさ」を感じますが、それをこともあろう「流行語」にしてしまうとは、「文明化」の恐ろしさを痛感しないわけにはいきません。

おもてなしの文化は、難しい話ではありません。
出会った人に笑顔で挨拶し、困っている人には親身になって相談に乗るということです。
それは「生き方」の問題であり、自らを豊かにする知恵の一つです。
「ホスピタリティ産業」という言葉もありますが、おもてなしは「産業化」してほしくはないものです。
おもてなしは与えるものであって、受けるものでもはありません。
徳洲会からのおもてなしを受けるようなことは、決して人を豊かにはしませんから。

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