■節子への挽歌2294:小春日和の和室には今も節子がいるようです
節子
だいぶ元気が出てきました。
もっとも世間では、相変わらずおぞましい状況が続いています。
まあしかし、それもまた面白いと思えば、厭世気分はやわらぎます。
ところで、ブログやフェイスブックに「厭世観」と書いたら、3人の人からメールやコメントが届きました。
厭世観が人をつなげると言うのも、おかしな話ですが、世間には厭世観が広がっているのかもしれません。
しかし、メールを下さった人たちに共通するのは、みんな「大切な人」との別れを体験していることです。
大切な人を失うと厭世的になってしまう。
つまり大切な人がいればこそ、世間は輝いていたのに、いなくなってしまった途端に、世間はその輝きを失い、魅力のないものになってしまうのです。
実は、成仏できないでいるのは、遺されたものの魂なのかもしれません。
私の場合、節子が会いなくなってから、ある種の「引きこもり」になっています。
家に引きこもっていると言うわけではないのです、いつもどこかに引きこもっている感じがするのです。
だから世間がどんどん狭くなる。
狭い世界からは魅力はどんどんなくなっていく。
厭世観の強まりは、私自身の意識のせいであることは間違いないでしょう。
決して世間のせいではない。
しかし、引きこもると良いこともあります。
世間の実相の見え方が変わってくるのです。
自らの世界の狭さもよくわかってきます。
厭世気分は、実は自己嫌悪と同じことなのかもしれないと気づくと、寛容にもなれます。
今日は和室のコタツで、この挽歌を書いています。
和室は冬しか使いませんが、節子がいた頃は、冬はいつも和室でした。
今もなお、和室には節子の気が漂っている気がします。
節子が愛用していた帽子もまだ床の間に残っています。
今日は、節子がいたら、とても幸せな時間を過ごせる小春日和です。
コタツに入っていると、節子がいた頃に戻ったような気がします。
しかし、帽子をかぶる節子はもういないのです。
どうしていないのか、まだきちんと理解できていない自分に気づくと、やはり自己嫌悪に引き込まれそうです。
さて、畑にでも行ってみましょうか。
立ち止まると、また連れ戻らされそうです。
困ったものです。
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