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2013/12/17

■節子への挽歌2295:ホモ・サケル的生き方

節子
また少し挽歌を書かずにいました。
体調が悪かったのでも、時間がなかったのでもありません。
ただ書けずにいたのです。
まあそういう時があってもいいでしょう。

この2日間、対照的な時間の使い方をしていました。
ひとつは極めて現実的な問題に煩わされていました。
これはなんとか短期的には解決しました。
もうひとつは頭が痛くなるような本を読んでいました。
アレントの「人間の条件」を読んで以来、ふたたび「公共性」という問題が気になりだしたのです。
とりわけ、人間なのかと思われるほどの主体性をなくした「ホモ・サケル」的な生き方への関心です。
ホモ・サケルとは、社会的・政治的生活を奪われて、法的保護の対象外とされ、生きようが死のうがかまわないと見なされた人々のことです。
イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンによって有名になった言葉です。
このブログの文脈でいえば、ビオス(社会的・政治的な生)を奪われて、ゾーエ(生物的な生)しか持たない存在のことです。
アレントの「人間の条件」は途中までは面白かったのですが、最後のほうはいささか疲れてしまい、いつものように粗雑な読み方になってっしまったのですが、どこか気になるところがあり、また同じようなテーマの本を読み出してしまったのです。
その本がまた、実に読みにくい本で、しかしどこかに惹かれるところがあり、読了までに2日間もかかってしまったわけです。
頭が疲れて、挽歌を書くところまでいきませんでした。

ところで、ホモ・サケルです。
アガンベンは、ドイツの強制収容所での話を題材に、ホモ・サケルを語っているのですが、現代の社会は、その全体が「収容所型」になっているのではないかとも言われています。
アレントも、そう考えていたと思いますが、今回読んだ稲葉振一郎さんの『「公共性」論』では、ホモ・サケル的生き方で何が悪いのかという根源的な問いを出してきています。
私は消化不良ですが、その問いにはとても納得しました。
根源的な問いこそが、私の関心のある問いなのです。
節子は、最初はそういう私の問いかけに呆れていましたが、次第に共感するか腹を立てるかのどちらかになってきていました。
これもまた、節子との思い出の一つです。

ホモ・サケル的生き方が良いか悪いかはともかくとして、最近の私の生き方は、どうもホモ・サケル的になってきているのではないかと言う気がふとしました。
たしかに、さまざまな社会問題に関わって生きてきてはいますが、どこかに能動的・主体的になりきれないところがあるのです。
稲葉さんの本を読んでいて、そんなことを考えてしまいました。

出かける時間になってしまいました。
中途半端ですが、とりあえずアップしておきます。
今日は湯島でロングランのサロンをやります。
中心は認知症予防ゲームと箸ピーゲームです。
2時からサロンは始まり、6時過ぎまで続きます。
誰でも歓迎ですので、私のように元気がなくなってしまった人はぜひ遊びに来てください。
元気になることは請け合いです。
誰でも歓迎ですので、気楽にどうぞ。

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