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2014/01/24

■閑話休題:挽歌と時評のクロス現象

吉本隆明の芸術言語論によれば、言語には、コミュニケーションのための指示表出と、沈黙が溢れ出る自己表出とがあるそうです。
極めて粗雑に、しかも独断的にいえば、ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいい。
しかし、いずれにしろ表出(表現)することにより、世界は動き出します。
吉本隆明は数年前の最後の講演で、「表現とは自然や他者との交通路」と言い、「表現すると自然も他者も自らも変化する」と語っていました。
独り言のような自己表出もまた、自らを変化させると言うことです。
そして、その話を聴いた時、表出は自らを変化させるための仕組みなのだと思ったのです。

このブログは、挽歌と時評によって構成されています。
吉本の言葉を借りれば、挽歌は自己表出、時評は指示表出です。
ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいいでしょう。
数年間、書き続けてきて思うのは、実はそのふたつは深く深く重なっていると言うことです。
書き手としては、時々、どちらがどちらなのか迷うこともあるのです。

挽歌は、6年以上続けていますが、最初の頃と最近とでは、内容も書き方も大きく変化していると思います。
情緒的にいえば、最近は書いていてとても「渇き」を感じます。
言い方を変えれば、「生気」が希薄になっているのを感じています。
挽歌を書こうとしている自分を見ている自分が、書いていると感ずる時さえあります。

時評は、書く時の気分で大きく変わります。
「生気」が希薄な時には、書くことが思いつきませんが、生気が満ちていると書きたいことがどんどん見えてくる。
思いがふくれてくると、ついつい感情をぶつけたくなる。
そして、自己嫌悪に辿り着くこともあるのです。

つまり、ゾーエとビオスの逆転が起こっている。
しかし、指示表出の挽歌や自己表出の時評は、読者には意味がないでしょう。
挽歌でコミュニケーションしたくなったり、時評でうっぷんを晴らすのは、どこかが屈折しています。

まさに、こうしたことに、吉本のいう、「表現すると自然も他者も自らも変化する」ということがあるのかもしれません。
書き続けていると、変わってしまう。

しかし、挽歌や時評を書き続けることが、何とか私の生きる拠り所を落ち着かせてくれています。
身体が反応して、思わず嘔吐してしまったり、病気になったりしてしまったりすることと、同じなのです。
挽歌的に言えば、以前は節子がその役を引き受けてくれていましたし、時評的に言えば仕事がその役を引き受けてくれていた。
いまは、節子もいないし、仕事もやっていない。
私のメッセージを引き受けてくれる仕事は、残念ながら見つかっていません。

いずれにしろ、挽歌と時評が重なってきていると言うことも、それなりに確信できた。
いや、重なり合わせて生きることが可能だということが確信できました。
ですから、このブログを続けようかどうか、最近少し迷いが出てきています。
挽歌を書くとしても、なにも公開のブログで書くこともないですし、時評を書くよりも仕事をした方が良いのかもしれません。
しかし、もう少し書き続けたい気持ちの方が、今は少し強いですが。

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コメント

佐藤様 こんにちは

申し訳ないと思いながらも、しつこくコメントを書いております。 このコメントが私の妻への挽歌なのです。
どうしようもなかった我が儘な私が、節子への挽歌に影響され少しでも妻へ近づけたのではないでしょうか

あまりにも懸け離れた人格の差、私と妻の慈しみの心の大きさは、比べようもないほど違っていました。
この人格という人間の原点は、勉学や知識、知恵、経験などから教わるものではなく
生まれたその時から持って生まれたものでしょうね

もしかすれば、生まれる前から存在していた見えない人格が、お腹の中の赤ちゃんに、そっと寄り添っているのかも
しれません

佐藤さんの挽歌と時評、これは人間としての基本、二面性ではないのでしょうか
以前にも書きましたが、誰も人は二重人格という二面性を持っているように感じております。

挽歌という佐藤さんの人格は、奥様の安眠によって少しバランスは崩れたかのように思えた時
「節子への挽歌」が綴られはじめ、良きパランスを保っておられるのではと、私は思っております。
この挽歌と言う佐藤さんの人格は、奥様へそして家族への慈しみであり
もう一つの人格と思われる時評は、他人様への慈しみではないのでしょうか

この二つの人格があってこそ、佐藤修その人の人格であり、私はそこから佐藤さんの「人間味」を
感じ取らせて頂いております。

故に、バランスを崩さない為にも、挽歌を続けて頂ければと願っております。

(エクセル絵画の展覧会において、佐藤様の奥様への「月下美人」が好評を頂いているようです。
 花が浮いて迫ってくるように見える・生花のように見えるなどと若い人からもお聞きしました。
 やはりあの絵には魂が?なんて考えたりしてしまいますね。)
 来月から、銀行と公民館に数点づつ分けて展示を致します。またメールなどで写真を送付いたします。

投稿: 山陰太郎 | 2014/01/24 15:08

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