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2014/01/25

■節子への挽歌2337:愛とは単純で軽やかで明らかなもの

予告どおり、昨日のつづきを書きます。
山陰さんはコメントで、「愛とは奥深く重厚で神秘なもの」と書いてくれていますが、むしろ、愛とは単純で軽やかで明らかなものではないかと、天邪鬼の私は思います。
山陰さん、すみません。

昨日の挽歌には、「愛とは、実はとても悲しくさびしく辛いもの」と書いているのに矛盾しないかと言われそうです。
私の意識のなかでは、矛盾はしません。
悲しさもさびしさも辛さも、みんな「単純で軽やかで明らかなもの」だと思うからです。
「軽やか」というのはちょっと違和感を持たれるかもしれませんが、愛に伴う「悲しさもさびしさも辛さ」には、軽やかさがあるように感じます。
いずれも、小賢しい「脳」を経由せずに、心身が反応するからです。
思ってもいないようなかたちで、それはやってきます。
突然涙が出てしまう。
意識もないのに胃腸がキュルキュル言い出す。
頭でどう対処しようとしても、対処できません。
とても素直な生命的現象です。

愛するとは、要するに「好き」だとか「いいな」とか感ずることです。
人を愛するとは、一緒にいると楽しいということだろうと思います。
でも、ただ「好き」というのでは何か言い足りない時に、「愛」という言葉が出てくるのかもしれません。
「愛している」といわれるのと「好きだ」といわれるのと、どちらがうれしいでしょうか。
私はやはり「好きだ」がいいですね。
「愛する」よりも「好き」のほうに、素直な気持ちを感ずるからです。

身も蓋もないようなことを書いてしまいましたが、愛とは生きる証なのかもしれません。
とても素直な生命現象なのです。
誰かや、何かを、愛せなくなったら、生きてはいけないでしょう。
愛とは、生きるために生命に埋め込まれた生命の種かもしれません。

とこう書いてくると、やはり「愛とは奥深く重厚で神秘なもの」ではないかと、山陰さんに言われそうですね。
そうかもしれません。
そもそも「生きる」ということが、奥深く重厚で神秘なものなのですから。

なにやら堂々巡りの自己否定の内容になってしまいました。

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妻への挽歌12」カテゴリの記事

コメント

佐藤様 こんにちは

愛とは? わたしがつまらない問答に引き込んでしまいました。
申し訳ありません

この記事の「愛」と言う対象の中心には、節子さんがなっておられるように思います。
当たり前ですよね 「節子への挽歌」ですから

確かに学生時代には、好きな女の子の下駄箱に、好きです付き合ってください!、、、
このような手紙を何度となく託したことがあります。 純真な年頃でしたから、純真な愛情だったと思います。
このように佐藤さんが言われているように、軽々な愛も沢山あります

また、私は子供の頃、捨てられていたワンコを家に持ち帰ったり、農機具小屋で数匹の子犬を育ててみたり
母親や近所の大人連中に文句を言われ叱られながらも、捨てられた犬たちにエサを運んでいた記憶があります。
これもひとつの愛だったのかもしれません

私はこのようなことを、つい最近までは「無償の愛」だと思っていました。 しかし、今考えてみますと
無償ではありませんでした。
あの小学生の頃、友人も少なかった私に、元気と笑顔をくれたのは捨てられたワンコの子犬たちの方でした。
自然にどこからともなく湧いてくる愛には、軽快な時もあり重厚な時もあるように思えます。
子犬たちには「命」が掛かっていたのですから

私が捨てられていた子犬たちに感じた軽い愛が、子犬たちにとっては重い愛だったのかもしれません
そして子犬たちが私に対して向けてくれたとすれば、その愛は真実の無償の愛だったように、思います。

ちなみに私は妻に「愛している」とか「好きだ」などとは、45年間一度も言ったことはありませんでした。
妻からもそのように言葉は、一度も言ってもらったことはありません

それでもお互いには通じ合えるのですね

投稿: 山陰太郎 | 2014/01/25 15:06

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