■節子への挽歌2315:ハリー・ポッター
節子
昨日の夜から今日はほとんど1日中、録画していた映画を見ていました。
「ハリー・ポッター」です。
8作品もあり、時間にすると20時間近いのですが、早送りで半分くらいの時間で見終わりました。
それでも10時間以上、かかったわけです。
いずれも前に一度観ている映画なので、ストーリーは理解しています。
以前はばらばらに観ていたので、いろいろと納得できないことが多かったのですが、一気にすべて観ても、やはり納得できないことが多かったです。
早送りで観たのが間違いだったかもしれません。
この種の映画は、節子は全くダメでした。
現実主義者の節子は、現実離れした話には興味を持ちませんでした。
さらに、何かを壊すとか、人を殺すとかいう、暴力が登場する映画も嫌いでした。
ついでにいえば、食べ物を大事にしないのもダメで、パイや卵の投げ合いの喜劇なども怒り出すほどでした。
今回、改めて8作品を一気に観ようと思ったのは、いつものように、思いつきなのですが、それでもこの映画が「生と死と愛」をテーマにしていたという記憶があったからです。
しかし、観終わった感想は、何でこんな映画があれほどの話題になったのだろうと言うことでした。
そんな映画を2日もかけて見直したのですから、困ったものです。
映画は、主人公のハリーが死者たちの支えを受けて、悪に立ち向かうという話です。
最後の戦いには、亡くなった両親などが総出演します。
要するに、生きる者は死者たちに守られて生きているという話なのです。
自らの生命をかけてハリーを救った母親は、ハリーに言います。
「(見えなくても)いつもみんなあなたのまわりにいるよ」と。
愛する人を見送った人から時々、メールをもらいます。
あるいはこの挽歌にコメントをもらうこともあります。
そうした人たちに共通しているのは、まだ近くに「愛する人」がいるという感覚です。
一方で、自らの心身が削がれ、ぽっかりと穴があいてしまっているのに、どこかに「あたたかなもの」を感ずると言うことです。
私の場合もそうです。
心があたたかくなるだけではありません。
時には身体さえもあたたかくなることがあるのです。
近くに「愛する人」、つまり節子がいるという感覚は、私の場合、次第に、近くに「愛」を感ずるという感覚に変わってきています。
それが、生きる意志を失ってしまった私に、生きる力を与えてくれているのでしょう。
ハリー・ポッターの映画を観る気になったのも、もしかしたら、そのことを私に気づかせるためだったのかもしれません。
いや、もっ深い意味があるのかもしれません。
今年もまた、こうして「思いつき」を大事にしようと思います。
考えてみれば、節子に結婚しようかと言ったのも、思いつきだったのですから。
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