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2014/01/04

■節子への挽歌2316:コト的生命観

節子
今日は少し理屈っぽい話です。

生物とは、「生命を持った物」という意味ですが、「生命」の定義はそう簡単なことではありません。
しかし、今回はそういうことではなく、生命とはモノなのかコトなのかという話です。
さらにいえば、モノとしての生命とコトとしての生命と分けて考えてみようという話です。
昨日書いた「ハリー・ポッター」の映画を観ながら考えたことです。

仏教で「大きないのち」という場合、それは「モノとしてのいのち」ではなく「コトとしてのいのち」の意味でしょう。
高野山の奥の院には、いまなお空海が生きていて、毎朝、食事を届けているそうですが、そこに生きている空海は、コトとしての空海のいのちです。
それぞれの家庭の仏壇にお供えをするのも、そこに「コトとしての生命」が生きていると思えばこそです。

コトとしての生命は、モノとしての死を超えて、生きています、
宿っていたモノから解き放たれ、自由に彼岸や此岸を行き交えるようになるのかもしれません。
あるいは、モノからの解放によって、どこにでも遍く存在するようになるのかもしれません。
遍く存在しながらも、ある個性を維持しているというのもおかしな話ですが、次元を超えて考えれば、おかしな話でもないのでしょう。

人工生命に取り組んでいる有田隆也さんは、「モノ的生命観」を超えた「コト的生命観」を提唱しています。
そして、生物という観点、モノという観点にとらわれずに生命を相対化していくことが大切だといいます。
そのためにも、「生物とはモノであるのに対して、生きているというのはコトである」という基本に戻るべきだと、その著書「生物から生命へ」に書かれています。
大切なことは、「モノ的生命観」から「コト的生命観」への移行は、時間軸と空間軸を変えることです。
モノは時空に囚われますが、コトは時空を創りだします。
とても共感できます。
かつては同じものだった科学と宗教(哲学)が再び統合されつつあるような気がします。

生物としての節子はもう存在しません。
しかし、生命としての節子は存在しないとは言い切れません。
存在するとも言い切れません。
ただ、コトとしての生命から考えれば、そもそも死などは一瞬のプロセスに過ぎないのかもしれません。
その先になにがあるか。
節子は知っているのでしょうか。
先を越されたのが残念です。

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妻への挽歌12」カテゴリの記事

コメント

佐藤様 こんばんは

今夜は初めてカレーを作ってみました。 なぜか無性に食べたくなったからなんですが
買ってきた材料が、ジャガイモとにんじん、それに固形のカレールーとカット野菜でした。

肉の代わりにサラダ油を入れ、ジャガイモとにんじんだけのカレーが出来上がり、食べてみると
これが美味かったですね
目の前の妻の写真が、苦笑いのように微笑んでいるのが、美味い理由なんでしょうか・・・

さて本題ですが
「コト的生命観」というこの記事には、心が奪われました。
私には佐藤さんと奥様の愛の強さが伝わってきます。それは今も継続されている真実の愛だと感じております。

この記事のようなお話には、私たちのような夫婦感を持つ者には、大きな感動と夢と癒され感が伝わってきます。
この世で造られた生物の細胞には確かに寿命はあります。
しかし、生命と言う説明の出来ない得体もしれないものには、当然ですが寿命などあるわけはありません

あの世と言う異次元の世界が無いとすれば、仏教の教えもキリストの教えも、他の宗教も存在することは不可能になってしまいます。
永遠不滅の「生命」があるからこそ、現代ここに生きる人々が倫理や道徳そして正義を知ることができるのかもしれません
あの世などないとおっしゃる人々が、なぜ身内の死に対して葬儀や墓参りをするのでしょうか

私は「あの世」や「彼岸」は仏教や神教などとは、まったく関係のない世界だと思っています。
当然、科学とも関係はありません

この世の全てのことを、現代科学をもってしても数%しか証明することは出来ないのですから、目に見えないもの感覚で分からないものは、90%以上が闇の中です。
ただ、あの世があるからと言っても、輪廻転生や彼岸での愛する人との再会は分かりませんが・・・

私は「永遠の生命」を「魂」だと考えております。
「魂」には計算力や語学力はありませんが、「思い」という漠然とした力はあるのではないかと考えています。
同じ波長、同じ電磁力を感じ取れる力は、「魂」にはあるのかもしれません

ですので私は、いついかなる時も「亡き妻」を思いながら行動をすることにしています。
もしかすれば、私の思い(波長)を妻も感じてくれているのではと、ささやかな願いからです。

妻を思い、後悔をするとき、寂しさに崩れるとき、妻との思い出を思い出すとき、全てが妻へ伝える「波長」だと信じております。

投稿: 山陰太郎 | 2014/01/04 20:13

山陰さん
いつもありがとうございます。
いつもそこにいる、という感じがしますよね。
それもとても自然にそう感じますよね。

ところで、私も今日はカレーでした。
山陰さんと違って、レトルトのカレーでしたが。
レトルトは、やはりレトルトです。
山陰さんを見習わなければいけませんね。

怠惰な4日が終わりました。
明日はオフィスに出かける予定です。

投稿: 佐藤修 | 2014/01/04 20:52

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