■節子への挽歌2329:読書時間が増えました
節子
最近、自宅にいる時に、暇をもてあますことが少なくありません。
節子がいた頃とはまったく違います。
節子がいた頃に、これくらい自宅で時間の余裕があったら、と思うことが少なくありません。
時間をもてあますなどという記憶はまったくありません。
むしろ、節子から、もう少しゆっくりしたらといわれるほど、自宅でも何か仕事をしていました。
もう少しすれば、一緒に過ごせる時間はたくさんできるからと、当時はお互いに思っていました。
残念ながら、そうはなりませんでした。
いまさら悔やんでも何の役にも立ちません。
しかし、当時、私はいったい何をしていたのでしょうか。
節子がいなくなってから、自宅でも読書をするようになりました。
以前、私の読書はほとんどが移動時間でした。
しかし、最近は出張も少なくなったため、移動時間が少なくなりました。
代わりに、自宅での読書が増えました。
それで長年「積読」になっていた分厚い本も読めるようになりました。
それに、そろそろ蔵書を処分するように娘たちから言われていますので、せめて読んでいない本は読んでおきたくなっています。
まあとても残された人生の時間では、すべてを読むのは無理でしょう。
あなたがいなくなったら、本をどうすればいいの、と節子はよく言っていました。
そんなことを思い出しながら、読書をすることが多くなってきました。
節子がいなくなってしまったために、時間の過ごし方がよくわからずに、無駄な時間を過ごしているような気がしてなりません。
読書の意味も、変わってしまったような気がします。
伴侶がいなくなると、こんなにも人生の意味が変わるとは、たぶんだれも思ってもいないでしょう。
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コメント
佐藤様 こんにちは
この記事は佐藤さんの現在の心境が、よく表現されています。
文章にも、佐藤さんの正直な心の内が書き込まれているのは勿論ですが
単語の短い言葉一つ一つからも「素直」な佐藤さんの心が伝わってきます。
私は人というものは、殆どの人が二重人格だと思っています。ただし、悪い意味ではありません
一つの心は、この世で生きていくための、「知識・知恵・応用など」が出来、自らの意識で左右出来る心
二つ目の心は、人間が誕生した時からどこかに備わっている「他人を慈しむ素直な心」だと思っています。
この二つ目の心は、自らが左右できるものではなく、生命を宿す生き物全てが内蔵している心であり
その人本来の「今」を、言葉や文章や行動に無意識のうちに表現されるのではないのでしょうか
私は、自分が書いたコメントや文章を、後日読み返して驚くことがあります。
最近はこのようなことが多くなりました。
意識しながら書く整然とした文章とは懸け離れ、自分の心から自然に書かされているような過去の文章に
本来の自分の今が分かる時があります。
例えば
自らの過去の文章を読み返した時、「おれはこれほど妻を愛していたのか・・」、こんな思いがすることもあります。
そのような時は、日本語の文法はめちゃくちゃになっていますが、私はそれでいいのではと考えております。
私のコメントは、ポイントを外したり、的を得ていない時があると思いますが、お許し下さい。
投稿: 山陰太郎 | 2014/01/18 14:30