■節子への挽歌2320:相互依存関係が深まると死んでしまうというお話
節子
散逸構造で有名なイリヤ・プリゴジンが高く評価しているエリッヒ・ヤンツという思想家がいます。
そのエリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」という本を読みおえました。
最初に手に取ったのは30年近く前だと思いますが、話があまりに大きく、途中で放棄していた本です。
ずっと気になっていたのですが、そろそろ読めるかもしれないと読み出したのです。
そこに、こんなことが書かれていました。
心とは固定した空間構造のなかに内在するのではなく、システムが自己組織化し自身を再新させ進化させるプロセスのなかに内在するものなのだ。平衡構造には心がない。これだけ引用しても、たぶんわかりにくいと思いますが、心とは固定したものの中にある静態的な概念ではなく、動いているプロセスのなかにある動態的概念だという点に共感しました。
同時に、そのことは、動きが止まってしまうと心は消滅してしまうということも示唆しています。
逆に言えば、心がなくなると、人は動きを止めてしまうわけです。
最近、私が動けずにいるのは、心が消えかけているからかもしれないというわけです。
これだけでも、私には十分に面白い話なのですが、さらにこんなことも書いています。
すべての生命システムには、なんらかの共生が認められる。もしそうだとすれば、私たちはすでに死んでいたわけです。
しかし、共生が完全な相互適応になってしまう場合もある。
こうなると自治は決定的に失われ、融合しても何も新しいものを生みださない。
自治の喪失は、意識の喪失にも等しい。
それは2種の動物が生物機能面であまりにも相互依存していたり、ふたりの人間が心理面で過度に依存しあっていたりする場合に顕著だ。
このような場合は、新奇性を犠牲にして確立性が最大化される。
システムは平衡に向かい、遅かれ早かれ生物的ないし心理的死を迎えるのである。
あんまり納得できませんが、なるほどと共感できるところもあります。
「自己組織化する宇宙」は、壮大な宇宙史の本ですが、なかなか面白かったです。
600頁の厚い本なので、かなりとばして読んでしまいましたが。
さて、この2つの話をどう解釈すべきか。
少し考えたいと思っています。
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コメント
佐藤様 こんばんは
今回の記事は、即答できるほど簡単ではありませんが、ほんの一部ですが理解できるような部分もあります
妻が逝き、その時夫も共に逝く。 生命を心と考えたとすれば、その通りかもしれませんね
私の理解力はこの程度のものです。申し訳ありません
それから話は変わりますが、手賀沼の風景をエクセル絵画で描いてみました。
即興で描いたものですから、たいした絵ではありませんが
わたしの心が描きたくなってしまいました。
もし不許可と言うことでありましたら即刻削除します。 お知らせください。
いつも私の書き込みは時限の低いことばかりで、ご迷惑をかけておりますが
何かございましたら、何時でもお叱りを頂ければと思っております。
節子さんを亡くされて七年目に入り、それでもなお書き続けられる愛には敬服しております。
心の休まる「節子への挽歌」を讀むことは、私の日課になってしまいました。
ただ、佐藤さんも書きたくない時、書けない時があると思います。 無理をしないで続けて頂ければ
嬉しい限りです。
投稿: 山陰太郎 | 2014/01/08 20:01
山陰さん
ありがとうございます。
見せてもらいました。
なかなかの出来栄えですね。
http://2.bp.blogspot.com/-YPuRT3KMNNY/Us0rer0AhBI/AAAAAAAAA9Y/yMphnh-lZO4/s1600/%E6%89%8B%E8%B3%80%E6%B2%BC%E3%81%AB%E5%81%B2%E3%81%B6.jpg
また紹介させてもらいます。
いつもありがとうございます。
投稿: 佐藤修 | 2014/01/08 20:14
佐藤様 また深夜におじゃまします。
手賀沼の風景、少しですが手直しをしておきました。
それから、つまらない絵画ですので、紹介などは恥をかくだけですので・・・
私は言葉足らずが欠点なので、このような下手な絵画で少しでも気持ちが伝わればと
佐藤さんの優しさに甘えさせて頂いております。
このような絵画でも、心が書かせてくれます。
心に入ってこなければ、何も書くことが出来ないのが、不思議です。
佐藤様も心が命じてくれないと、文章などは書くことが難しいのではと思っております。
頭(脳)で書く難しい論文などは、私には書くことは出来ません
脳と心はまったく別物ではないかと、最近考えることが多くなりました。
ですので、仕事もボランティアも、妻がいたころとは違った感覚で参加をしています
少しですが、何事にも「心」が入り込んできます。「入魂」とでも言うのでしょうか
残念ですが、私は妻に遅れること五十年
やっとのこと人間として仲間入りをさせてもらったのではと思っています。
これが佐藤様との決定的な違いなのかもしれませんね
投稿: 山陰太郎 | 2014/01/09 02:40