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2014/01/01

■節子への挽歌2313:「生きたいと思わねばならない。そして死ぬことを知らねばならぬ」

節子
またひとつ、年が明けました。
節子を見送ってから、7回目の新しい年の始まりです。
今年は初日の出がよく見えました。
Hatuhi2014

節子がいたときにはいつも2人で拝んでいましたが、今年は拝むこともなくただただその美しさに見とれ、荘厳さを感じていました。
昨日の朝と同じ日の出なのに、なぜ元旦の日の出には特別のものを感ずるのでしょうか。
おそらく、自然世界もまた「意味の世界」だからでしょう。

この数年、亜空間のなかを浮遊するような感じで過ごしています。
時間が止まったように、過去も未来も感じない、よどんだような生き方といってもいいかもしれません。
ともかく〈生きている〉という実感が得られない。
そんな生き方に陥っています。

それに気づいたのが一昨年ですが、昨年もそこから抜け出られずに、いや抜け出ようという気にならずに、過ごしてしまいました。
数日前も書きましたが、昨年末、書棚にあったカミユの本がなぜか目にとまりました。
読むでもなくぱらぱらとめくっていたら、いくつかの言葉が目に入ってきました。
今年の挽歌は、その言葉から始めたいと思います。
それは、カミユが書き留めたナポレオンの言葉です。

「生きたいと思わねばならない。そして死ぬことを知らねばならぬ。」
節子と別れてから、私は生きたいと思うことなく、7年を過ごしてきました。
生きたいと思わないということは、死ぬことにも無関心だということです。
死への恐怖や不安は、不思議なほどに全くありません。
つまり、死を忘れてしまったといってもいいでしょう。
そんなこともあって、この言葉が目にとまったわけです。
カミユもまた、この言葉に引かれたのだと思うとちょっと愉快になりました。
カミユは、明らかに「生きたい」などと思ったことはないでしょう。
生きたいと思わねばならないと思ったわけですから。
彼が、異邦人のムルソーのように死に向かわなかったのは、この言葉のせいかもしれません。
だから私も「生きたい」と思うことにしました。
生きたいと思うことで、死の感覚を思い出させてくれるかもしれません。

年の始まりから、死の話になってしまいましたが、初日の出を見ながら、生と死はつながっている同じものであり、わずか瞬時のものでしかないと気づいたのです。

節子の好きだったわが家のリビングは、いま陽射しで春のようです。
これから娘たちと待ち合わせて初詣です。
今年は、浮遊状態から解き放たれるかもしれません。
すべては大きな自然の流れるままですが。

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妻への挽歌12」カテゴリの記事

コメント

佐藤様 こんばんは

お返事を有難うございます。今、野菜工場から帰ってきました。
きのうの「お雑煮」を温めて、夜食の用意をしております。

>そちらのお雑煮は、白味噌に丸餅ですか?
まったくその通りです。

そして無謀にも「大根とにんじんの酢の物」もつくってしまいました。
酢や砂糖の調合もでたらめでしたが、食べてみると「妻の味」ソックリで
甘酸っぱい味が懐かしく、味付けは妻がしてくれたんじゃないかとさえ思ってしまいました。

佐藤様がおっしゃっておられます「生と死」につきましては、私の独善的な考えなのですが
生と死が反転しております。

この世での人生が「死の世界」であり、あの世への旅立ちが「生きる世界」への旅立ちという摩訶不思議な考えです。
ですので、佐藤さんと同じで、死期を恐れてはおりません
どちらかと言えば、死が迫った時は嬉しい思いがするのではと、少し期待感もあります。

しかし、その根底には「必ず妻が迎えてくれる」という、これも私の独善的な思いがあるからでしょうね

妻が亡くなった頃は、妻に再会できることなど考える余裕もありませんでしたが
最近は、「もしかすれば・・・」との期待感が大きくなってきております。

それは宗教が教えてくれたものでもなく、スピリチュアル思想や科学が教えてくれたものでもありません
私が妻との繋がりを永遠のものではないだろうか? と考えるようになりましたのは、妻との出会いの瞬間から
今までの妻との一言一言を、思い出しながら繋げていくうちに、自然に芽生えてきた心情なのです

ご近所には仲良しの老夫婦はたくさんいらっしゃいます
同じ趣味をもち、グランドゴルフを一緒にされたり、旅行にご夫婦そろって行かれたりと、みるからに仲良しのお二人さんですが、
私たち夫婦は、趣味もまったく違うもので、性格も正反対(几帳面な妻とダラシナイ私)、好きな車の色さえも違っていた二人でした。
また、三十五年間の自営業で妻と一緒にいる時間は、普通の夫婦さんの2倍以上でしたが、飽きることもなく邪魔者になることもなく、過ごせていました。
(自宅兼事務所でしたから)
なのに過去を振り返ってみると、夫婦喧嘩は一度も無く、食事に文句を言ったこともなく、苦しい局面に直面した時は何時も傍には妻が寄り添って私を擁護してくれていました。

このようなことで「死」の話は、私にとってはありがたい「生」の話なのです。

投稿: 山陰太郎 | 2014/01/02 03:09

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