■節子への挽歌2341:生活の「生きがい」と人生の「生きがい」
節子
早々とお風呂に入って「生きがい」について考えてみました。
久しぶりに長湯をしましたが、あんまり考えは深まりませんでした。
そもそも「生きがい」などを考えること自体が、私の趣味には合わないという、身も蓋もない思いが強まっただけです。
健全な人生を送っていれば、思いもしない言葉かもしれません。
ただ、節子がいる時にも、「生きがい」ではありませんが、「生きる意味」という言葉は使っていました。
それも「私の生きる意味は節子だ」ということでした。
このことは、告別式の挨拶でも話させてもらいました。
挽歌にも、最初の頃は頻繁に「生きる意味」を書いた記憶があります。
お風呂から上がって、調べてみたら、「生命を支える生きがい」などということも書いていました。
「生きがい」といえば、飯田史彦さんが「生きがいの創造」を何冊も書いていたなと思い出しました。
彼から何冊か送られてきていますが、節子がいなくなってからは、飯田さんと会っていません。
節子を見送ってから少しして、飯田さんに会いたくなって、連絡したのですが、なぜか今は会えないと言われてしまいました。
彼とは不思議な縁なのですが、そろそろもう会える時期に来ているかもしれません。
連絡をとってみようかと思います。
でも、たぶん「生きがい」に関しては、飯田さんとの話にはならないでしょう。
昨日のお風呂での結論はこうです。
生活の「生きがい」と人生の「生きがい」は異質のものである。
相変わらずわかったようでわからない話ですみません。
でもこう考えれば、何とか私でも帳尻を合わせられます。
人生の「生きがい」は失っても、日々の生活の「生きがい」はもてる、と。
つまり、節子がいなくても、「生きがい」はもてるのです。
少し小賢しいですかね。
時間がたっぷりあったので、明日の挽歌を書いてしまいました。
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コメント
佐藤様 こんばんは
お風呂の持つ力は、想像するよりも大きなものなのかもしれませんね
実は私は今、お風呂との格闘をしております。
自宅のお風呂ではありませんが、こちらでの温泉地の旅館の大浴場が相手です
開湯から800年以上の有名な温泉地の中に、大きな旅館は5軒から6軒あります。
そして中型の旅館が十数軒あります
私が格闘しているのは中型の旅館ですが、源泉の湯量や温度によって、大浴場の「かけ流し」は
難しいところがあるようです。
私が管理させてもらっております旅館も、大浴場の湯は循環をしながら使われています
現在の湯量では「かけ流し」は無理なのですが、少し源泉の温度が低めの第二の源泉があります。
それを利用させて頂き、大浴場の「かけ流し」を実現させようと考えました。
昔とは大違いのハイブリッド機器やエコ熱交換機器が開発されています
それらを利用させて頂いて、ただいま設計中です
ある意味、私はこの温泉の持つ「宿命」を変えようとしています。
そして私はふと気づきました
佐藤様も「節子さん」という設計者と出会い、そして「佐藤さんの宿命」を、変えてもらわれたのかも
しれませんね
私は間違いなく妻との出会いによって、「宿命」を変えてもらいました。
それは、ふわふわと雲の上に鎮座しているような、心地いい人生に変えてもらったように思います。
妻と出逢っていなければ、私は「野垂れ死」というのが宿命だったように思ったりします。
生まれた時から欠陥だらけの私を、人並みの人生に導いてくれたのは、まぎれもなく妻でしたから
たくさんの人たちが喜んでくれるなら、「宿命」を変えるお手伝いをしても問題はないと思うのですが・・・
佐藤様と私を幸せに変えてくれた設計者は、お互いの伴侶だったのですね
私はそのように思っております。
投稿: 山陰太郎 | 2014/01/31 02:54