■過剰なものを生産する社会
極めて個人的な事情からなのですが、今年になってから、あまり社会と関わらずに、少しひっそりと時を過ごす時間が増えました。
ほぼ1か月、そういう生活を過ごしていますが、動いていると見えないものがよく見えてきます。
これまでの自分の生き方への疑問も出てきます。
昨日、挽歌では「生きがい」を話題にしましたが、生きがいが話題になるような社会はやはりどこかおかしいのだろうと、改めて思います。
湯島のサロンで、時々、私は、石器時代の人のほうが、私たち現代人よりも豊かな暮らしだったのではないかと発言して、ひんしゅくを買っています。
しかし、これは私の考えたことではなく、経済人類学者マーシャル・サーリンズの本で学んだことです。
湯島のサロンでは、誰も相手にしてくれませんが、サーリンズの言葉を受け入れると、社会の見え方は変わってきます。
しかし、誰も石器時代人よりも今の私たちのほうが幸せだと思いこんでいます。
こうした思い込みは、ほかにもいろいろとあります。
ジョルジュ・バタイユの指摘は、もっと刺激的です。
生命体は、地表で、自らの生命の維持に要する以上のエネルギーを受け取っている、というのです。
この1世紀、私たちのエネルギー消費量は飛躍的に増大しましたが、それでもなお、地表には使われていないエネルギーが満ち満ちている。
別に原発など開発する必要などまったくなかったということになります。
バタイユは、経済とは過剰なエネルギー処理の仕組みだというのです。
その議論においては、消費や遊びも労働と同値になっていきます。
人口爆発が資源や食料の不足を惹き起こすといわれますが、バタイユが正しければ、そんなことはありえないでしょう。
そして、バタイユはたぶん正しい。
こんな話もあります。
生存のために費やす労働時間は石器時代人よりも現代人のほうが長い。
このことに異論を唱える人は、そう多くはないでしょう。
私の子ども時代は、今よりも物質的には豊かでなかったと思いますが、働く時間は少なかったように思います。
いまもたぶん第一次産業に従事する人たちのほうが、時間に余裕があるでしょう。
何のために私たちは、労働時間を増やしてまでも、過剰なものを生産する生き方を受け入れてしまったのでしょうか。
過剰なものを生産してしまえば、その過剰分を消費する労働まで引き受けなくてはなりません。
立ち止まって社会を見ていると、何でみんな忙しく動き回っているのだろうという気がしてきます。
もしかしたら、私たちは、貧しくなるために働いているのかもしれません。
まあ社会と距離を置いて、一人で考えていると、こんなことを考えてしまうわけです。
おかしいのは社会か私か。
悩ましい問題です。
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