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2014/01/23

■節子への挽歌2335:「いいことだけ日記」の反省

節子
先日、「いいことだけ日記」について書いたのですが、このことを以前、この挽歌にもきちんと書いたと思っていましたが、どうも書いていないようです。
文中に出てくることはありますが、見出しにはなっていませんでした。
改めて書いておこうと思います。
6年の間に、私の考えも少し変わってきていますので。

節子は子どもの頃からずっと日記を書いていました。
その節子が、胃がんになり、手術をしてから、あまり日記を書かなくなっていました。
とくに再発してからは、書けなくなっていました。
それで、私が、自分を元気づけるためにも、ともかく「いいこと」を見つけ出して、それを書くような日記にしたらと提案したのです。
そして、3年日記を購入してきました。
その提案に、節子は喜んでくれましたし、新聞に投稿までしてくれました。
新聞を読んだ人からも、良い考えだという手紙もきました。
友人の一人は、その投稿が私の妻のものであるとは気づかずに、切り取って残していてくれました(妻が亡くなった後で気づいたそうです)。
うまくいけば、そこに、たくさんの「いいこと」が記録されていたはずです。
しかし、そうはならなかったのです。

その日記帳は、いまも節子の使っていた書棚に残っていますが、開く気にはなれません。
そこから、節子の厳しい闘病生活が見えてくるからです。

節子は、「いいことだけ日記」で元気づけられたでしょうか。
たしかに最初はそうでした。
しかし、いまから考えると、それは残酷なことだったのかもしれません。

昨年、私はある問題を抱えこみ、気の重い状況を続けていました。
そんな時に、「いいことだけ日記」を書いたらといわれても、書けなかったでしょう。
生活の基本が「悩ましい状況」にある時に、「いいことだけ」を見ようとすることなど、できることではないのです。
でも周りの人を心配させないために、「いいことだけ」を意識しながら生きようとする。
もしかしたら、そういうことを、私は節子に求めていたのかもしれません。

おそらく多くの人は、考えすぎだというでしょう。
しかし、こうしたことは、そうした状況に陥った当事者でなければわからないことです。
それに、世の中は「いいこと」だけで成り立ってはいないのです。
そして、もっと大切なのは、何が「いいこと」で、何が「いいことではない」のかです。
大切なのは、どんなことにも「いいこと」の要素があると気づくことでしょう。
昨日書いた、篠崎さんは、それを教えてくれています。
そして、節子がいなくなったいま、ようやく、そのことに気づきだしています。
「いいこと」と「いいことではないこと」とは、コインの裏表です。
「わるいこと」も含めてみんな「いいこと」だと思えるようになれれば、と思います。
もしかしたら、これが〈悟り〉なのかもしれません。
世界がすべて清々しく、あたたかに見えてくる。
そんな心境になれればうれしいですね。
まだもう少し「思索」と「体験」が必要のようです。

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妻への挽歌12」カテゴリの記事

コメント

佐藤様 こんばんは

またまた佐藤さんの、奥様への強く大きな優しさが詰め込まれた記事ですね

「佐藤修の節子への愛」とは? 愛とは?・・・ 佐藤さんがこのように問われたとき

その答えは、この六年をも超えて書きつづけられる「節子への挽歌」ではないのでしょうか

しかし、六年以上を越えて書き綴られた「節子への挽歌」を持ってしても、その答えは語り尽くすことは難しい
それほど「愛とは?」奥深く重厚で神秘なものなんですね

おそらく、佐藤様ほどの勉学家が、奥様への愛を生涯の時間を費やし語られたとしても語り尽くせないのではと思います。

理論物理学者にしても、「愛とは?」の答えを数字で表すことは出来ないことは無理なことでしょう
量子物理学にしても、医学の達人にしても、「愛とは?」の答えは、導き出すことは無理なことだろうと思います
両者が出す答えは、脳がどうのこうのと屁理屈を捏ねるぐらいでしょうね

理論や数字では答えられない「愛」、まして最愛の妻への愛を、言葉や文章で表すことは至難の業かもしれません

佐藤さんからの、亡き奥様への真実の思いを理解してくれるのは亡き奥様の外には、この世には存在しないかもしれませんが
この節子への挽歌によって救われている他人様は多いのではないでしょうか
私もその一人ですが、佐藤さんの奥様への真実の思いは、百分の一も理解していないのかもしれません


投稿: 山陰太郎 | 2014/01/23 22:21

山陰さん
ありがとうございます。
あんまり褒められると穴を掘って隠れたくなります。
それに「愛」などということを語ることもかなり恥ずかしい気分です。
しかし、山陰さんのコメントを読んで、「愛」という言葉をこの挽歌でどのくらい使っているのか気になって調べて見ました。
自分でも驚くほど使っていました。
挽歌や鎮魂歌とは愛の歌なのですね。
改めて自覚しました。

投稿: 佐藤修 | 2014/01/24 08:53

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