■節子への挽歌2327:背中を押されている感じ
節子
年が明けたのに、そして前に進みだそうと思っているのに、なかなか心身が動きません。
困ったものです。
しかし、不思議なもので、私の気持ちに呼応するように、年が明けてから、いろんな話が飛び込んできます。
まるで私の背中を押すような感じです。
こういうことに少し過敏になっているのかもしれませんが、自分の思いと環境の動きが連動していると感ずることは少なくありません。
昨年はどうも遠出する気がせずに、閉じこもりがちで、本当に出不精を決め込んでいました。
昨日も寒中見舞いを書いていて、昨年の初めに出かけようと思っていたところに、どこにも行っていないことに気づきました。
節子がいなくなってから、本当に私の行動範囲は狭くなっています。
世界を狭めていくと、意識はどんどん内向します。
それではますます気が萎えるだけでしょう。
ところが、なぜか今年になってから、いろんなところからの誘いがあります。
まだ彼岸に出かけるわけには行きませんが、その準備も兼ねて、今年は少し出かけようかと思います。
背中を押しているのはだれでしょうか。
だれであろうと、私が素直に前に進む気になるかどうかが大切です。
今回はちょっと前に進んでみようかと思います。
節子はいつも言っていました。
迷ったら、ともかくやってみるのがいい。
背中を押しているのは、節子かもしれません。
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コメント
佐藤様 こんにちは
私も今年は仕事では大変忙しく飛び回っております。 有り難いことなのですが
やはり妻がいたころの「楽しい仕事」とは思えません
毎夜考えるのは、仕事もそうなのですが生きていることに虚しさが混じりあってきます。
この虚しさは生涯続くものなのでしょうね
それでも、半歩でも前に進めるのは、妻の後押しがあってのことだと信じております。
佐藤さんがおっしゃる
>背中を押しているのは、節子かもしれません。
この言葉は、的を得ているのではないでしょうか
あの世があるのか、魂は存在するのか?
このようなことは、結論を導き出す必要はないと思っております。
亡き妻への「想い」そのものが魂の存在そのものだと信じながら、残された余生を
生きていければ、幸せですから
投稿: 山陰太郎 | 2014/01/15 15:50