■ヘイト・スピーチは特殊な話ではありません
昨年最後のオープンサロンで、ヘイト・スピーチが少しだけ話題になりました。
あまり議論は盛り上がらなかったのですが、翌日、参加者の一人から、「私の今年の印象ではヘイト・スピーチが最重要に思えました」というメールが届きました。
それで、もう少しきちんと問題を理解しようと思い、最近出版された岩波新書の師岡康子さんの「ヘイト・スピーチとは何か」を読みました。
さほどの認識違いはないなと思って、さっと読み終えたのですが、「あとがき」を読んで自らの勘違いに気づきました。
勘違いと言うよりも、問題の捉え方が根本的に間違っていたのです。
あとがきの最初の部分を引用させてもらいます。
ヘイト・スピーチの問題について話をすると、あの排外主義デモをやっている人たちは、一体どんな人たちなのかとの質問をしばしば受け、違和感を覚える。つまり、私は、ヘイト・スピーチ現象は社会状況の一つの現われと捉えていましたが、師岡さんが言うように、要点がずれていました。
ヘイト・スピーチとは差別であり、まず、そして何より考えるべきは、差別によりもたらされるマイノリティ被害者の自死を選ぶほどの苦しみをどう止めるかということではないだろうか。未だ多くの議論が差別の実態を離れた机上の空論になりがちである現状に対しては、要点がずれていると言わざるを得ない。
問題は、私の心身の中にもある「差別」だったのです。
ヘイト・スピーチ現象は、私とは無縁の話ではなく、まさに私の生き方であり、考え方なのです。
一人称自動詞で生きるといいながら、どうもまだ徹底できていません。
ヘイト・スピーチ活動をする人への差別も含めて、自分とは別の世界の話だと思いたがっていたわけです。
まさに、ニーメラーの間違いを繰り返していたのです。
師岡さんの「マイノリティ被害者の自死を選ぶほどの苦しみ」という言葉が、特に心に沁みました。
まだまだ私の感受性は、底が知れています。
そして、昨年末の最後のサロンの場でも、「ヘイト・スピーチ」が存在していたことにも気づきました。
その時は、私自身の直感的なもので、その発言には生理的な嫌悪感を持ち、思わず異議を唱えました。
しかし、なぜ異議を唱えたかの理由が自分でも理解していなかったのです。
ヘイト・スピーチの話題を出した人(翌日メールをくれた人ですが)も、それに気づいていなかったかもしれません。
ヘイト・スピーチは、実は特殊な話ではなく、私たちの日常の生活につながっている話なのです。
私も、もしかしたら、同じようなことをやっているのかもしれません。
直接発言せずとも、そうした発言を見逃していたら、差別に加担することにもなりかねません。
自分の心の中にある「差別の感覚」を、できるだけ意識化しようと思います。
世の中には、「特別の事件」などないのです。
これが今年最初の私の気づきです。
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コメント
下に向けての差別に意識が行きがちですが,上を(徒に)崇める気持ちは,差別と同根のものであるような気がします。
投稿: パソ爺 | 2014/01/04 11:36