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2014/02/10

■節子への挽歌2352:レールと愛

節子
2日前の時評編「うまくいかない人生」に、知人から届いたメールの一部を引用させてもらいました。
そこでは引用しませんでしたが、もう1行、加えて、改めて引用させてもらいます。

一度レールを外れると、もう終わるんだなと、つくづく疲れ果てています。
今は積極的に死へ向かおうとは思いませんが、結局ご縁もなく、雇用も不安定な自分の選択の稚拙さに、未来など全く考えられない自分がいます。
最近特に、自分に合う人との出会い、愛情の有無が、どこにいようが何をしようが、全てではないかと思うようになってきました。
まだ若い女性ですが、3年ほど前に、湯島のサロンに来てくれました。
以来、連絡がなかったのですが、久しぶりにメールが来たのです。
いろいろと気になることはありますが、最後の1行が心に残りました。

自分に合う人との出会い、愛情の有無が、どこにいようが何をしようが、全てではないか。

私もそう思います。
もしかしたら、人生のレールにうまく乗れなかったからこそ、気づくことかもしれません。
レールに乗ってしまったら、あまり考えることなく、ただ走り続けることになるかもしれません。
レールに乗っていた人は、定年でレールを降りても、生き方は変わらず、一番大切なことに気づかずに生きている人も少なくありません。
この人は、自らを「うまくいかない人生」と考えているようなのですが、愛情がすべてだと気づいただけでも、いい人生なのではないかと思います。
愛情こそ、人を豊かにしてくれます。

私も、レールから外れた人生を生きています。
25年前に会社を辞めたことも、レールから降りたことかもしれませんが、そうではなくて、伴侶を失うことは、いわば人生の途中で脱線したようなものだからです。
しかし、脱線してもなお、何とか進めているのは、人との出会いや愛のおかげです。
愛と言っても、伴侶への愛に限っているわけではありません。
自らも含めて、愛することができるということです。
あるいは「愛されている」ことを実感できるということです。
天に愛されている、自分に愛されている。
いろんな言い方ができるでしょうが、要は「愛」を実感できることです。
人はみんな「愛されて」います。
そして、「愛する」ことは、誰にもできることなのです。それも、「どこにいようが何をしようが」、です。

生きていくためには、レールよりも愛が大切かもしれません。

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