■節子への挽歌2370:悲しさの陰
節子
なかなか春にはなりません。
今日も寒い1日になりました。
愛する人を亡くした人には、どこか陰があります。
元気そうに見えても、どこかにさびしさがある。
ひょっとした拍子に、それが現れます。
そして多くの場合、それは同じ立場を体験した人にしか見えないかもしれません。
昨日、そんなことを思いました。
昨日、久しぶりに何人かの従兄弟たちと会食しました。
そのなかに、3年ほど前に息子を病気で亡くした従兄がいたのですが、いつもよりもどことなく言葉が少なかったのです。
話のなかでは、節子の話もそうですが、その息子さんの話も、みんな意識してかしないかは別にして、話題には出ませんでした。
むしろみんな避けていたかもしれません。
しかし、別れ際に、その人が私のところに来て、時間が解決することなどないね、とささやきました。
あなたの気持ちがよくわかったよ、とも言ってくれました。
おかしな話ですが、なぜかうれしい気持ちでした。
愛する人を喪った気持ちは、なかなかわかってはもらえないからです。
しかし、伴侶よりも、息子に先に行かれるほうが、悲しさや寂しさは強いかもしれません。
その人は、もう3年ほど経ちますが、立ち直れていないことが伝わってきました。
そして、みんなの前で、その人はその言葉を押さえていて、私だけにささやいてきたことに、少し後悔しました。
変な気遣いをせずに、むしろ息子さんの話題を出した方がよかったのかもしれません。
もし私だったら、そのほうがよかったなと反省しました。
自分の体験が活かせていませんでした。
中途半端な思いやりは、あまりよいことではありません。
しかし、立場が違うと、そう簡単な話でもありません。
やはりこの種の話は、難しい。
悲しさの陰は、陰のままにしておくのがいいのかもしれません。
言葉だけで話し合うのは、難しい話題なのかもしれません。
愛する人を喪うと、人生は変わってしまいます。
改めてそう思いました。
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コメント
佐藤様 こんばんは
息子さんを亡くされた方と佐藤様の心模様が伝わってきます。
奇遇なのですが、妻を亡くした二年後、私にも同じような出来事がありました。
知人の息子さんを亡くされた家族は、親戚ではありませんが四十年の長きに亘り
家族同然のお付き合いをさせて頂いていました。
妻が亡くなった時、その方たちの家族は遠方に引っ越しをされていましたので
妻の葬儀のことは事後報告という形をとらせて頂いて、それで少し遠のいたような感じになっていました。
当然のごとく、妻のいなくなった私の魅力など、だれも見向きをしてくれないことは、承知の事実ですから
そう思っていた矢先、突然その知人から連絡があり、「仏前に線香を挙げさせてほしい」と・・・
そして、一週間後、その方の家族さんが、列車を乗り継ぎ9時間かけて来てくれました。
その時初めて知人さんから、「息子が死んだ」と聞かされ絶句しました。
長男さん30歳の自死での旅立ちは、身内を亡くしたものの心が身に染みて分かったと、語っておられました。
妻の位牌に向かい「来るのが遅くなって お許しください」と、何度も何度も手を合わせてくれました。
同じような思いは、人と人をいっそう強く繋げてくれますね
私にも安堵の心がひろがり、その家族の方たちの顔も安堵の顔に変化していく様子が感じられました。
佐藤様がおっしゃるように、このような悲しみは「陰」にそっと置いておく方が、いいのかもしれませんね
投稿: 山陰太郎 | 2014/02/28 03:20