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2014/02/25

■節子への挽歌2368:メッタ・スッタ

節子

平安の境地にある人は
心身ともにすこやかで
言葉優しく 誠実で
うぬぼれることはない
これは上部座仏教の根本経典「メッタ・スッタ」の最初の言葉です。
「メッタ・スッタ」のことは、昨年、佐久間庸和さんに教えてもらいましたが、佐久間さんが、ご自分が訳した「慈経 自由訳」(三五館)を送ってきてくれました。
ブッダの生き方が、10項目に凝縮されたものです。

そもそも「経」とは、根本的な原理原則のことであり、生き方における芯の柱のようなものであり、自らの生き方を顧みる重要な視点を提供してくれるものです。
佐久間さんは、「メッタ・スッタ」を「慈経」と訳しました。
とても共感できます。
しかし、読んでみると、やはりいまの私の生き方は、あまりに未熟です。

冒頭に紹介した、最初の項目はどうでしょうか。
読んでまず感じたのは、私自身がいまだに「平安の境地」にはないことです。
節子がいなくなってから、ひと時たりとも平安だったことはありませんが、
しかし、最近は、それ以上に「平安でない」自分を感じます。
言葉が粗雑で、時に他者のみならず自らを裏切り、うぬぼれることは決して少なくありません。
そのために、心身ともに健やかではないのです。
そのせいか、昨年末くらいから、身体さえもがガタガタになってしまっているのです。

その結果か、その原因かは、わかりませんが、いまの時世にも怒りを感じます。
時世だけではなく、今を生きている同時代人にも、怒りを禁じえない。
節子がいたら、まだその怒りを少しは減じてもらえたかもしれません。
怒りは、その存在をわかってもらえている人がいるだけでも、大きく緩和されるものです。
吐き出さないと、怒りは沸々と強まってしまうのです。

どうしたら「平安」になれるでしょうか。
それは、たぶん、なろうと思ってなれるものではないでしょう。
なろうと思う気持ちをなくした時に、突然に訪れてくるのかもしれない。

慈経は、「慈しみの心」こそが、平安に通ずると説いています。
その「慈しみの心」が、最近、私の心身から少し逃げ出しているのです。

すべての
生きとし生けるものが
幸せであれ
平穏であれ
安らかであれ
これは、小さい頃からの私の信条だったはずです。
ところが最近、どうもそう思えないのです。
そう思えない自分に気づくことほどさびしいことはありません。
「慈しみの心」が、また戻ってきてくれることを祈らねばなりません。
節子は戻ってはこないでしょうが、「慈しみの心」は戻ってくるかもしれません。

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