■節子への挽歌2348:人はみんな「変わり者」
節子
自称変わり者夫婦が、自称変わり者の友人と一緒に湯島に来ました。
その友人が、ここに来る人はみんな「変わり者」だからと紹介してくれました。
「そんなことはない」と、否定しましたが、そう言う人が多いので、まあそうかもしれません。
そのご夫妻は、発達障害の人たちに働き場を提供しているのですが、お2人が言うには、そういう人から学ぶことが多いのだそうです。
とてもていねいに仕事に取り組むし、とてもあったかなものを感じ、一緒に働いている人たちが変わってきたというのです。
実に共感できる話です。
私は常日頃、いわゆる「健常者」(不思議な言葉です)なる人たちのほうこそ、「異常」ではないかと思っているのですが、それを裏づけてくれる体験談です。
大切な人を喪って、人は変わります。
私の経験では、2つの変わり方があるようです。
自分の世界に向かって「偏狭」になる人と、自分の世界のむなしさ(仏教でいう空)に気づいて「寛容」になる人です。
私の体験では、喪失体験の直後は、いずれもの方向にも引き寄せられ、右往左往しますが、次第にどちらかに落ちついてきます。
どちらがいいかはわかりませんが、後者のほうが間違いなく、生きやすくなりそうです。
そして、その方向に進むと、これまでこだわってきた判断基準が相対化されていきます。
そうなると世界の風景が変わっていきます。
私が「障害を持つ人」こそ健全だと思えるようになったのは、そのおかげです。
人はみんなそれぞれに「障害」がある。
そこに気づけば、誰にもやさしく、同じ目線で接しられるようになります。
寛容さは、世界を広げ深め、心を安堵させてくれます。
みんなそれぞれに「障害」があるのと同じく、実はみんなそれぞれに「変わり者」です。
しかし、なんとなく「標準的な常識人」(そんな人はいないのでしょうが)になろうとしてしまうのが、ほとんどの人でしょう。
湯島の空間は、「変わり者」でもいいんだという空気が、もしかしたら、あるのかもしれません。
だから、湯島では、みんな「変わり者」、つまり、自分になれるのです。
ビオスではなく、ゾーエの世界。
生真面目な節子は、最初はそれになじめませんでした。
だからサロンを始めた時には、かなりのストレスだったでしょう。
カルチャーショックだったはずです。
節子には苦労させたような気がします。
でも、そのおかげで、湯島のオフィスは今も「自由」が横溢しています。
そして、相変わらず「変わり者」がわがもの顔をしてやってきています。
私は、生真面目な節子も好きでしたが、変わり者の節子も大好きでした。
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