■節子への挽歌2369:一緒のいる時間の大切さ
節子
もう30年ほど会っていなかった従弟が、東京に来るというので、首都圏在住の従兄弟たちにも声をかけて、久しぶりに会食しました。
みんなそれぞれに歳をとり、なかなか会う機会も少なくなりました。
人生は、人それぞれです。
歳をとるにつれて、それぞれの人生に埋没して、なかなか会う機会がなくなりがちです。
逆に、兄弟姉妹でも利害関係や感情のもつれから、疎遠になることもあります。
私は2人兄弟ですが、価値観の違いから、会うとほぼ必ず論争になります。
それでも、幸いに住んでいるところが近いので、会う機会は多いです。
人のつながりは、会う時間の長さに大きく影響しています。
先日、ある集まりで、若者たちに、いまの社会で一番欠けているのは何かを訊いてみました。
最初に答えた若い女性は、「家族のつながり」と言いました。
どうして家族のつながりがなくなってきたのかと質問したら、「一緒にいる時間が少ないから」と答えました。
人のつながりは、一緒にいる時間や共通の体験によって、深まります。
ただし、そこに上下関係や拘束関係があれば、つながりもおかしなものになりかねません。
「絆」という言葉には、そうした要素がたぶんに含まれているため、安直に使うべきではないと私は思っています。
これは、東北被災地で活動していた医師の岡部さんから教えてもらったことです。
私と節子もまた、一緒にいる時間によって、その関係は大きく変わったように思います。
私たちが、お互いに深く理解しあえたのは、私が会社を辞めてからです。
お互いに、それまでは見えてこなかったことが見え始めました。
もし、私が会社を辞めていなかったら、私と節子の関係も変わっていたかもしれません。
この挽歌も、書かなかったかもしれません。
離婚が話題になるほどの夫婦の話が、時々、耳に入ってきます。
どんなに喧嘩をしていても、価値観や性格がちがっていても、対等な関係で一緒にいる時間が積み重なっていけば、つながりは深まります。
DVなどがある場合は別ですが、会話がないとか、好みが違うとか、そんなことであれば、離婚はしないほうがいいでしょう。
会話がなくても、いつか一緒に暮らしていたことが、大きな価値を持っていることに気づくことがあるものです。
なにやら従兄弟での会食の話とは違うことを書いてしまいました。
念のために言えば、会食では、そんな話は一切出ませんでした。
幸いに、私が苦手な昔話もほどほどでした。
何を話したでもないのですが、あっという間の5時間でした。
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