■節子への挽歌2355:記憶の現実感が薄れてきています
節子
体調がいまひとつです。
私の場合、かなり気分が環境と連動していますので、最近の世上がやはり影響しているのかもしれません。
昨日、テレビの「相棒」という番組の最後のところを見ました。
暗示による殺人がテーマでした。
私は、その部分だけを10分ほど見ただけなのですが。
人を眼隠して、出血していると思わせる状況をつくり、失血による死に向っていることを示唆すると、全く出血していないのに死ぬことがあるのだそうです。
19世紀にオランダの医師が行なった実験だそうです。
有名なミルグラムのアイヒマン実験というのもありますが、自らの生死は、ある程度、自分の意思で決められるということも含意しているように思います。
これに関連した話は、この挽歌でも何回か書いたような気がします。
私は両親と節子の3人の同居家族を見送りましたが、いずれもその最後の時間は本人の意思が影響していたと実感しています。
節子の場合は、なんと日が変わる真夜中の0時でしたが、これは決して偶然ではないように思います。
「いのち」とは、不思議なものです。
でわ、逆に「死んでいない」という暗示をかけたら、どうなるでしょうか。
もしかしたら、節子の最後の1か月はそうだったかもしれないと、時々思うことがあります。
節子との会話はほとんど記憶にないのです。
愛する人との別れなのに、記憶がないのは不思議です。
漠然とした光景は、時々、思い出すのですが、どうもはっきりした記憶がないのです。
あの頃は、私も節子と一緒に彼岸にいたのかもしれません。
なにやらおかしなことを書いてしまいましたが、
思い出そうとすればするほど、思い出せなくなっていく記憶もあるものです。
つまり、現実感がなくなっていくのです。
最後の1か月だけではありません。
最近、節子との思い出が、なにやら現実感を失い、すべて夢だったのではないかなどと思うことがあるのです。
人の過去は変わらないと言いますが、どうもそんなことはないようです。
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