■節子への挽歌2374:生きていることのまぶしさ
節子
また2日ほど、ブログを休んでしまい、挽歌も書けませんでした。
私のように、状況に自らを合わせすぎて、生活のリズムがうまくつくれない者にとっては、あることを毎日つづけることはどちらかというと苦手です。
その私が、こうやって、曲がりなりにも挽歌を書き続けていることは、節子もたぶん感心していることでしょう。
一昨日、会った人が、佐藤さんはいまも毎日挽歌を書き続けるだけの奥さんがいたのだから幸せですよ、と私に言いました。
その人は、奥さんと離縁し、子どもさんとも交流がなくなり、いまは一人ですが、私よりもずっと明るく、使命に燃えて生きています。
私との出会いは4年ほど前ですが、いまも毎月のように湯島に来ます。
さびしさから、私の顔を見に来るのかもしれません。
伴侶と死別するのと、伴侶と離婚するのと、どちらがいいでしょうか。
これは、当事者でなければ判断できない問題でしょう。
今日の新聞に、東日本大震災で妻を亡くした人の話が出ていました。
テレビで「あの日あの時」という証言番組が流れ出すと、「出てくる人たちはみんな生きているんだもんな」と言って、テレビを消したそうです。
その気持ちが、なんだかわかるような気がします。
その人にとって、「生きていること」の意味が、たぶん全く変わってしまったのです。
新聞やテレビに接していると、こうしたちょっとしたことに心身が反応してしまいます。
私も、時々、「生きている人たち」がまぶしすぎて、見つづけられないことがあります。
遺された人の語りも、時々、辛くて見つづけられないことがある。
「生きていること」を、意識するようになったのは、節子がいなくなってからです。
できれば、そんなことを意識することなく、生きていたかったと思います。
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