■節子への挽歌2381:自分の性格の悪さを感じます
節子
3回目の3.11です。
新聞やテレビで被災者の話にたくさん出会います。
私がいささかひねくれているのだろうと思いますが、たくさんの感動的な話を聞かされるたびに、どこか冷えた自分がいることに気づきます。
どこかで、そんなはずはない、と思っている自分を感じます。
被災者の痛みに寄り添うとかいう言葉にも、どこか違和感があります。
どうも最近、私の性格は悪くなっているようです。
しかし、他者の痛みに寄り添うって、いったいどういうことなのでしょうか。
よく聞く言葉ですが、よくわかりません。
今朝の朝日新聞の夕刊に、作家の古川日出男さんが、『怒りでは「共有」できない』という寄稿をしていました。
そこにこんな文章がありました。
僕たちは被災地の、その一人ひとりの方々の憤り――さまざまな形の憤り――を共有することはできない。それが「可能だ」と思い込む態度は、正直おこがましい。しかし、悲しみに寄り添うことならば可能ではないか。そして、被災地に無数の「楽しさ」が生まれる手助けをすることは、もっともっと可能ではないか。
共感する一方で、やはりどこかに違和感があります。
前半は同感なのですが、悲しみに寄り添うことなど、できるはずがないと、性格の悪い私は、今も思っているのです。
今日はつっけんどんな挽歌ですみません。
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