■節子への挽歌2378:久しぶりの節子の写真
節子
娘のユカが、柏のあけぼの公園のチューリップ畑で撮った節子の写真をプリントして私にくれました。
節子が病気になってからの写真は、ほとんどプリントアウトしていないのですが、久しぶりに節子の写真を見ていて、とても不思議な気がしてきました。
まだ節子がいないことが実感できないのです。
節子はいまもこうやって、すぐそこにいるという実感が、心身から抜けないのです。
写真の中の節子が実に生き生きと感じられるのです。
節子が死んでしまったことが、まだ私にはあまり理解できていないのかもしれません。
写真の節子は、かなりやせていました。
あのふっくらした節子とは大違いです。
しかし、いつものように、笑いながら両手を思い切りあげてはしゃいでいます。
いささか表情がきつい感じがしますが、この写真はいつごろのものでしょうか。
たぶん娘と一緒に、あけぼの公園に行った時の写真なのでしょう。
私には記憶がありません。
再発してからは、どこに行くのも私と一緒でしたから、これは再発前の写真です。
もしかしたら奇跡が起こると、誰もが思っていた頃です。
節子は思っていなかったかもしれませんが。
私だけではないと思いますが、妻の死は理屈ではわかってはいるのですが、感覚的にはまだ受け入れられないのです。
あの節子が私を置いて死ぬはずがない、とどこかで思っているわけです。
いまもどこかにいて、いつかきっと会えるような気がしていますし、いまもすぐ近くに節子の気配を感じます。
前にも書きましたが、たぶん節子の一部は、私の心身に入り込んでいるのでしょう。
その一方で、その身近に感ずる節子に会えないことが、とてもさびしく、時に精神を不安にさせます。
位牌に向って、何で出てこないの、と思わず声に出してしまうこともあります。
まあ分別のある者のやることではないでしょうが、分別を超えてでも、節子にまた会いたいという思いがあります。
この不思議な気持ちは、なかなかわかってはもらえないでしょう。
いまも、フッと節子がどこかから現れるかもしれないと思います。
それほど節子は、私の心身の中ではまだ現実感のある存在なのです。
節子の写真はたくさん残されています。
一緒に旅行に行った時のビデオもあります。
しかし、なかなか見ようという気にはなりません。
精神のバランスをくずしそうな不安もあります。
たった1枚の写真を見ただけで、これだけ心が揺らぐのですから、まだもうしばらくは写真は無理のようです。
節子には、この私は見えているのでしょうか。
見えていたら、もう少し私に元気をくれませんか。
最近は、とても心細く、自然の中に消え入りたい自分を感じています。
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