■節子への挽歌2391:「老年の超越」
節子
スウェーデンのラルス・トルンスタム教授は、「老年の超越」ということを提唱しています。
85歳を超えて、超高齢期になると「人は物質的合理的な視点から神秘的超越的な視点へと移行し、この移行とともに人生の満足感が増大する」のだそうです。
エリクソンの「ライフサイクル」論でも、老年期には人生を肯定的に振り返り、それまで育んできた他者と自己への信頼を感じることで、希望を持つことができるとされています。
そして、トルンスタムの「老年の超越」を、「時空を超えて、高みに上がること、凌ぐこと、まさること、限界を越えることである。それは人間の知識と経験の全てを越えること」と解説しています。
もしこれが事実であれば、老年期とはわくわくするものと言っていいでしょう。
私はまだ、超高齢期には達していませんが、なんとなく「老年の超越」はわかるような気がします。
時空を超えて、高みにあがれば、此岸だけではなく、もしかしたら彼岸も展望できるかもしれません。
いや、できるに違いありません。
彼岸が見えてしまえば、此岸での「知識や経験」など、瑣末なことなのかもしれません。
「認知症」という言葉よりも、私は「痴呆」という言葉のほうが好きですが、もしかしたらそれは、時空を超えた状況なのかもしれません。
それにしても、時空を超えるとはどういうことでしょうか。
実に興味があります。
できれば節子と一緒に、時空を越えた旅をしたかったですが、ひとりだと迷いそうな心配もあります。
最近、娘から「認知症気味」ではないかと指摘されています。
そろそろ私も「老年の超越」の入り口に近づいているのかもしれません。
なにやらわくわくしますが、単なる思考力や記憶力の劣化でなければいいのですが。
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