■節子への挽歌2375:遺された人への心遣い
節子
人はいつか死にます。
愛し合っている夫婦も、必ずいつかどちらかが死ぬわけです。
その場合、遺された人はどうなるのか。
そうしたことへの心遣いは、節子との別れを体験するまで、私は全く気づきませんでした。
私は両親と同居していましたが、父親が亡くなった後、母にどう心遣いしたでしょうか。
今から思えば、全くと言っていいほどしていませんでした。
母が仏壇に向って、般若心経をあげていても、そこに同席したことはありませんでした。
私が般若心経を覚えたのは、節子を見送ってからです。
なんとまあ勝手なことか。
一人になった母を旅行に誘ったり、一緒に何かをしたことはありますが、心遣いとはそんなことではないでしょう。
それは、自分がその立場になってはじめてわかることです。
しかし、身も蓋もない言い方をすれば、そんな心遣いなどできるはずもないということです。
伴侶や子どもに先立たれ、遺された者の人生は、そこで一度、終わってしまう。
そこから再起できるかどうかは、人それぞれでしょうが、生き方が大きく変わってしまうことは避けられないような気がします。
私の場合は、なかなか再起できません。
あまりに節子に埋没してしまっていたからでしょうか。
そんなこともないのですが、実に不思議です。
まあ、再起する前に、人生が終わるかもしれませんが、私の場合、時評編に書きましたが、節子が居ようが居まいが、この4月から生き方を変えるつもりでした。
うまく変えられるといいのですが。
ちなみに、どう変えるかを考える気力も今はないのです。
困ったものです。
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