■節子への挽歌2395:時間感覚が回復しだしているのかもしれません
節子
年度の変わり目のせいで、いろんな人から転進の連絡が続いています。
みんな、私よりも一まわりも二まわりも、いや三まわりも若い人たちです。
故郷に戻ることにした人もいれば、海外に移る人もいます。
企業からNPOに変わる人がいれば、NPOから企業に変わる人もいる。
同じ組織でも、仕事がガラッと変わる人もいれば、仕事を変えたくないので組織を変える人もいる。
それぞれいずれも納得できるものです。
最近は実に多様な生き方ができる時代だなと、改めて思います。
みんな自分の生き方を見つけていくものです。
おそらく昨年も、一昨年も、その前も同じだったのだと思いますが、こういうことを考えた記憶がありません。
それに、今年はなんだか自分が取り残されている気分がしてしまうのです。
みんなどんどん変わっていく。
新しい世界へと活動の分野を広げていく。
周りの人たちの世界が広がれば、それは私の世界の広がりでもあるはずです。
いつもなら素直にうれしがれたはずですが、
自分がどこか置いてきぼりになっているような寂しさを感じてしまう。
私には生まれて初めての気分です。
なぜでしょうか。
節子がいなくなってから、私の中では時間が止まっています。
季節の変化さえ、実はあまり実感できません。
しかも、止まっているのは私だけではなく、周りも止まってしまっているような気がしていました。
いや、そう思いたかっただけでしょう。
それが、今年は、周りがどんどんと変わっていくのが、気になるようになってきたのです。
考えようによっては、私の時間感覚が正常化してきているのかもしれません。
しかし、変えることのできない自分が、なんだかとても惨めな気がしてきています。
新しい世界への転進の連絡には、おめでとう、楽しみにしているよ、などと言いながら、どこか心の隅に、羨望と寂しさがあるような気がしてなりません。
考えようによっては、実に僻みっぽくなっている。
困ったものです。
歳のせいが、あるかもしれません。
しかし、間違いなく、節子がいないことが大きな理由になっているはずです。
節子がいたら、私もまだまだ大きく生き方を変えられるはずです。
前にも書きましたが、今日で私の第3四半世紀の人生は終わりです。
いよいよ第4四半世紀が始まります(第1四半世紀が22年だったので、年齢とは合いませんが)。
その生き方をどうするか、まだ何も考えていません。
しかし、時間感覚が戻ってきた今、もしかしたら考えられるかもしれないと思い出しました。
25年前の今日は、白いキャンバスに絵の具を入れるような、そんなわくわくする日だったのです。
この25年間は、あまりに面白く、あまりに悲しい四半世紀でした。
そのせいか、今はまだわくわくする気配はまったくありません。
いずれにしろ、私の第3四半世紀はおしまいです。
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