■節子への挽歌2409:人は一人で生きてはいない
節子
人は自分の人生ではなく、自分たちの人生を生きているのではないかと、最近、強く思えるようになってきました。
節子と一緒に暮らすようになって、私の人生はたぶん一変しました。
価値観も大きく変わった気がします。
最初は、私が節子の価値観を変えようと思っていましたが、価値観は関係性の中で育っていくことを、40年の結婚生活で実感しました。
「社会脳」という言葉がありますが、極端に言えば、脳はそもそも「個人脳」ではないように思います。
人は決して、一人では生きていないのです。
節子が旅立った翌年、秋葉原通り魔事件という無差別殺傷事件が起きました。
その犯人の弟さんが自殺しましたが、その人が残した記事を読みました。
事件が起きた後、家族はみんな人生を変えてしまったのです。
弟さんは、自殺してしまいました。
弟さんは、被害者家族も辛いだろうが、加害者家族も辛いのだと書いています。
家族の一人が、事件を起こすことで、家族は、人生を狂わせます。
事件に限りません。
事故でも自殺でも、近くの人の死は、人生を変えるのです。
人は、一人で生きているのではなく、家族や仲間など、「自分たち」で生きている。
最近、改めてそう思います。
節子がいなくなって、人生を変えてしまったのは、私だけではありません。
まだ結婚せずに自宅に残っていた、娘たちの人生も変わってしまいました。
親としては、それが悔やまれて仕方がありません。
家族は、良い時はいいですが、問題が起こると、シェアしてしまうのです。
たとえば、家族の誰かが、思っていたよりも早く亡くなってしまうと、家族は混乱し、それぞれの人生は大きく狂いだします。
家族の「絆」が強ければ、なおさらです。
人の死は、必ずまわりの人たちを巻き込んでしまいます。
人は、決して一人では死ねない。
私たちは、つながって生きている。
「いのち」は、決して自分のものではないのです。
この頃、そういうことを痛切に感じています。
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