■節子への挽歌2417:他者への声かけは、自分への声かけかもしれません
節子
暖かな陽射しのいい天気です。
今日は午前中は在宅なので、畑に行ってきました。
畑は少し手を抜くと、草が伸びだして、大変になりますが、それ以上に、植えつけた野菜の苗が元気にならないのです。
野菜には声をかけないといけません。
人とまったく同じです。
フェイスブックをやっているといろんな人の様子がそれとなく伝わってきます。
元気な人はいいのですが、時々、声をかけないと心配だなということがあります。
私自身、そういう時がありますので、よくわかります。
しかし難しいのは、声の掛け方です。
人は勝手なもので、声をかけてもらいたい一方で、声の掛け方で、受け取り方が変わってしまうのです。
でもまあ、まずは声をかけることです。
今朝も若い友人に声をかけさせてもらいました。
声をかけた途端に、ハッと気づきました。
これは自己の心情の他者への投影なのだと。
そう気づくと、いろんなことの見え方が変わってきます。
声をかけてこない人の心情や、極めて事務的な物言いも、結局は、自分自身にその根因があるのだと。
そう考えると、気分がかなり明るくなります。
世界は、自分の心情の投影でしかないのかもしれません。
畑はだいぶ広がってきました。
花の種が早く芽を出してくれるといいのですが。
今日は、良い日になりそうです。
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