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2014/04/11

■原子力信仰から抜けられない日本

政府が、新たなエネルギー基本計画を閣議決定しました。
それによると、原発は「重要なベースロード電源」とされ、民主党政権が打ち出した「原発ゼロ」から方針を大きく転換し、原発再稼動が進められそうです。
あれだけの原発事故によって、これほどの甚大な被害を受け、今なお、収束の目処さえ立っていないにもかかわらず、いったい閣僚たちは何を考えているのだろうかと驚くばかりです。

これに関して、最近、読んだ大澤真幸さんの指摘が、とても納得できます。
大澤さんは、「原子力国家」として、日本の行く末を危惧しているネグリの講演記録をまとめた、「ネグリ、日本と向き合う」(NHK出版新書)のなかで、こう書いています。

端的に言えば、「原子力」は、どこか神のように、あるいは救世主のように崇められ、信じられてきたのだ。「それ」があることによって、われわれの基本的な安全や幸福が保証されるような何かとして、「原子力」は、この地上に降臨した。日本人は、はっきりとした自覚をもたずに、原子力を信仰してきたし、今でも、その信仰を棄てられずにいるのだ。
原発ゼロになると、雇用も失われ、エネルギー価格が高くなり、成長もできなくなる、という、まことしやかな俗説に洗脳された日本人は、口にするのもおぞましいほど、邪教の信者に成り下がっているとしか私には思えません。
論理の組み立て方が、全く逆なのですから。

同書に詳しく書かれていますが、「原子力国家」はnuclear stateの訳で、原子力発電を推進する産官学メディアの癒着構造が国家体制の中核を支配し、主権を乗っ取っている国家のことです。
ネグリは、こう書いています。

高度な原子力技術は単に産業政策の帰結ではない。それは、その物質的な機構の維持を挺子として、テクノクラート組織とメディアによって資本主義の支配を保障し、民主的なプロセスの「例外状態」をつねに強制する「原子力国家」の絶対的なオプションにほかならない。
重要なことは、原子力は経済の問題ではないということです。
また、以前も何回か書いていますが、原爆(核兵器)と原発(核の平和利用)はコインの裏表です。
同書で、白井聡さんが指摘していますが、核の平和的利用とは、実質的に「核兵器をつくる技術」にほかならないフロントエンド事業(ウラン濃縮等)・バックエンド事業(使用済み燃料再処理、プルトニウム抽出等)なのです。
私たちはこのあたりをもっとしっかりと理解しなくてはいけないように思います。

ちなみに、この本で白井聡さんは、ネグリの科学技術変質論を踏まえて、国家による科学技術の包摂による「原子力-主権国家体制」論を展開しています。
とても共感できます。

マンハッタン計画に代表されるように、そこでは科学技術の営為は国家の全面的な支援を受けて、第一線の科学者が大量に動員される巨大プロジェクトとして展開された。言うなればそれは、国家による科学技術の包摂であった。
主権国家体制が崩れだしているなかで(これがネグリの時代認識ですが)、原発〈=核兵器〉にしがみつく主権国家とは何なのかを、私たちはしっかりと考えたいものです。
エネルギー計画は、主権国家の存命のためにではなく、人々の生活の視点で考えられなければならないと思います。

原子力信仰からの解放を、私の周りの人から働きかけていますが、なかなか呪縛は強いです。

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