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2014/04/25

■節子への挽歌2419:身勝手さを思う

節子
やはりこの挽歌は、いろんな人に心配をかけているようです。
広島の折口さんからまたメールが来ました。
そういえば、先日会った平井さんも、この挽歌を読んでくださっているそうですが、だから「元気そうでよかった」と言ってくれたわけです。
いやはや困ったものです。

たしかに、そう元気とは言えず、時にドスンと落ち込んでしまうのですが、根が楽観主義というか単純なものですから、たぶん文章から感ずるほどではないのです。
挽歌にそうした思いを書いた途端に、気が戻ってくる面もありますし。
友人の吉田俊樹さんは、「こんなうじうじした文章を読めるか」と言いながらも、時々読んでいるようですが、それは私がともかく生きていることを確かめるためなのかもしれません。
まあ、そういう効用はあるようですが、それにしてもちょっと暗い文章が多いですね。
反省してはいるのですが、どうしてもそうなってしまいます。
困ったものですが、お許しください。

昨日も書きましたが、どの面に焦点を合わせるかで世界は違って見えてきます。
節子もよく知っている友人に、この連休に会えないかという連絡をしたら、妹さんのがんのケアもあって、連休は時間がないと連絡がありました。
そういえば、前に妹さんのがんの話は聞いていましたが、私自身すっかり失念していました。
彼女にとって、妹さんががんになったことは、とても衝撃的なことで忘れようがないでしょうが、私はそれを忘れてしまう。
人はなんと身勝手なことか。
自分のことは大げさに書きながら、他者の悲しさや辛さは軽く聞き流してしまう。
そのメールを読んで、とても恥ずかしい思いに襲われました。

友人自身は、最近大活躍で、それを知るたびにうれしい思いだったのですが、実はその後ろに妹さんの辛い事情もあったわけです。
彼女の辛さに関して、なんと無頓着だったことか。
人には見えないことがたくさんあることを、時に忘れてしまいます。
私のように、すべてをさらけ出してしまうと、自分は楽になりますが、その分、もしかしたら周りが迷惑しているのかもしれません。

私は娘から時々言われることがあります。
お父さんは見えることしか見ないで相手を決めつける、と。
自分では決してそうは思っていないのですが、自分自身が極めて単純なので、心のひだや見えない心情に鈍感なのかもしれません。
自分としては、そうしたことへの心配りは誰にも負けないと思ってはいるのですが、どうもそうではなさそうです。
これは節子からも以前よく言われていたことでもあります。

ちなみに、挽歌を読んで下さっている方の気持ちへの配慮は、間違いなくできていません。
そうでなければ、こうも毎日、意味もないことを書き続けられません。
以前は、それでも月に1回くらいは、意味のあることも書けていたような気がしますが、最近は自分でさえ、書いた後、アップしようかどうか迷うことが多いのです。
娘は、ネタがなくなったのではないかと言いますが、決してそうではなく、私の心情、あるいは生への思いが希薄になってきているのだろうと、私は思っています。

文章には、その人の生き様が現れるものだと、改めて思います。

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