■節子への挽歌2412:ほんとうによいこと
節子
今日は湯島でフォワードカフェをやります。
この集まりは、自殺のない社会づくりネットワークの交流会から始まったのですが、「自殺」を前面に打ち出すとみんな腰が引けるようで、参加者が固定されがちでしたので、昨年からスタイルを変えました。
ちょっとつまずいたけれど、いつか前に向って進みたいと思っている人たちの、ホッとできる場にしたいと思ったのです。
一挙にそうはなりませんが、継続したいと思っています。
それは、依然、節子とやっていた頃のオープンサロンの精神です。
オープンサロンは賑やかになりすぎてしまいましたが、今回は私自身があまり広く活動していませんので、集まる人たちも純粋にカフェを楽しむ人たちになってきました。
会の参加者が増えて賑やかになっていくことが、必ずしもいいわけではありません。
最近ようやく、そうしたことが頭での判断ではなく、感覚的に納得できるようになってきました。
いろんなスタイルのサロンを、いまもやっていますが、そのおかげでさまざまな人たちに出会います。
さまざまな人生があることを、いつも実感しています。
うらやましい人生もあれば、何かしてやりたくなる人生もあります。
カフェをしながら、いつも思います。
みんなが、お互いに心を開いて、一緒に支え合ったら、世界は豊かになるだろうと。
しかし、その一方で、私自身も含めて、みんなそれぞれに「自分の世界と自分の小さな財産」にどこかで執着しています。
人は支え合わないと生きていけませんが、同時に、自分ひとりの世界を持たないと、生きつづけられません。
本当に、人とは勝手なものです。
しかし、私にとっては、節子との生活は、すべてを投げ出しても、心地よいものでした。
節子さえいれば、財産など何一つなくてもいいと思えていました。
夫婦とは、実に不思議な関係です。
スピノザは、「知性改善論」と言う本で、「一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされる限りでよいとか悪いとか言えるのだと知ったとき、私はついに決心した、われわれのあずかりうる真の善[ほんとうのよいこと]で、他のすべてを捨ててもただそれだけあれば心が刺激されるような何かが存在しないかどうか、いやむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享楽できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探究してみようと」。
私にとっては、その答は存在します。
しかし、「手に入れて」というスピノザの発想は、たぶん間違っています。
「ほんとうによいこと」は、決して、手には入りません。
節子が隣にいて、手に入っていた時には、その意味が私にはわかっていなかったのです。
私の手から離れてからやっと、私には「ほんとうによいこと」とは何なのかがわかりました。
さて、今日はどんな物語に出会えるでしょうか。
もし良かったら、湯島に遊びに来てください。
1時半から3時半までやっています。
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