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2014/04/11

■節子への挽歌2406:愛する人から奪われていく

節子
久しぶりに小学校時代の同窓生に会いたくなって、大森に行ってきました。
小学4年から中学1年まで、私は大森で育ちました。
今では、大森に住んでいる同窓生は少なくなってしまいましたが、今日、会ったのは靴屋の基之です。
急に電話したのですが、わざわざ駅まで出てきてくれて、美味しいうなぎをご馳走してくれました。
自分の靴屋のお店は臨時休業にしてきたそうです。
彼は親父さんのあとを継いで、靴屋をやっていましたが、名人だった親父さんのような良い靴は自分には作れないと作るのをやめてしまいました。
巨漢で、いまは独り身なので、いつもちょっと気になっています。
これほどのお人好しはいないというほどのお人好しですが、最近は靴は売れないと言っていました。

彼と、もう2人ほど、親しい仲間がいるのですが、それぞれにいろんな問題があって、最近はなかなか会う機会もありません。
小学校時代の同窓生でいえば、男性は5人ほど亡くなっていますが、そのうちの3人は、小学校時代には私ととても仲良しでした。
子どもの頃、一番よく遊んだのが、その3人でした。
よりによって、なぜその3人が亡くなってしまったのか、一時はちょっと気になりました。
私に親しい人が、先に旅立っていく。
まあ、そんな気さえしたこともあります。

これは小学校時代の同窓生に限ったことではありません。
なぜ、よりによって彼が、と思う体験は少なくありません。
しかし、これは、私だけの話ではないのでしょう。
人はみんな自分中心に考えますから、そういう印象が残ってしまうのでしょう。

「愛する人から奪われていく」。
私には、そんな気がしてなりません。
まあこんなことを言うと、いま残っている人は、どうでもいい人なのかと怒られそうですが、そんなことは決してないのですが、子どもの頃、仲がよかった友からなくなってきているのは事実です。

久しぶりに会ったといっても、特に用事があったわけでもありません。
しかし、話しているときりがありません。
幼なじみとはそんなものなのでしょう。
少し元気が出てきましたが、うなぎのせいではないでしょう。
無垢の世界に立ち返ると、人は元気になるものです。
ちなみに、私にとって、節子との関係は、まさに「無垢」の関係でした。
お互いに完全に正直になれましたし、駆け引きなどは不要でした。
お互いに隣にいるだけで、心が落ち着きました。
そういう関係性は、一朝一夕には出来ません。
お互いに、それなりの努力を重ねた結果でもありました。
もう、そういう自らを完全に開放できる関係を体験する事は無理でしょう。

別れた後、また少しややこしい相談を受けている人に電話しました。
みんな基之のように、無垢な生き方をしていると社会は平和なのですが。
基之との時間でもらった元気は、やはり1日で消費してしまいました。
社会は、壊れているとしか思えません。

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