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2014/04/16

■節子への挽歌2410:「必然」というものへの一種の愛

節子
われわれは単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならない、とスピノザは言いました。
すべては、自然の流れの中で動いている、それに帰依すれば、絶対的な安心が得られるとスピノザはいいます。

昨日は久しぶりに新潟に行ってきました。
5年前から関わっている「ネットワークささえあい」の新潟サロンが始まったのです。
第1回目だったので、私も参加させてもらいました。
佐藤裕さんが参加してくれました。
裕さんも、私と同じく、数年前に家族のひとりを失いました。
会を主催した事務局のお一人である金田さんも、昨年、同じ体験をしました。

家族を失う意味は、それぞれに違います。
一様に考えることはできません。
それに、一般論で考えることもまちがっています。
100歳を超した親とまだ若い子どもとは、その意味は全く違うだろうと考えていましたが、そうではありません。
喪失体験は、それぞれに違っていて、一般化はできません。
そうしたことに気づいてきたのも、最近のことです。
以前は、伴侶を失う事こそが一番辛い、と私自身思いこんでいましたが、そんなことはありません。
喪失体験の辛さは、比較などできないのです。
それは相手の問題ではなくて、自分の問題だからです。
喪失体験とは、他者の死のことではなく、自らの生の問題なのです。
常に悔いが残るのも、そう考えれば、納得できます。
昨日の集まりで、ようやくこの事が、実感できました。
グリーフケアの捉え直しが必要なような気がしてきました。

スピノザは、しかし、そうした別れは、自然の大きな流れの中での「必然」だと断定します。
そう確信すれば、全体的な安心がやってくるというのです。
一種の諦めの勧めのような気もしますが、そうではありません。
そこには「愛」があるといいます。

スピノザの「エチカ」の入門書を読んでみましたが、よく理解できませんでした。
唯一、受けたメッセージは、「必然」というものへの一種の愛をもてるならば、平安な生が得られるだろうということです。
なかなか消化できません。

新潟は桜が満開でした。

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