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2014/04/21

■国家はだれのものか

韓国のセウォル号の沈没事故は、言葉がないほどに、痛ましい事件です。
船内に閉じ込められた高校生たちのことを考えると、やりきれなさを感じます。

報道を見ていて、毎回感ずるのは、国家というものの「おぞましさ」です。
事故が発生した時に、日本政府もアメリカ政府も、韓国政府に対して、救援活動への協力を要請したと言います。
しかし、なぜか断られたそうです。
なぜそんなことが起こるのか。
これは、しかし、韓国政府だけの話ではありません。
福島原発事故の時には、日本政府はアメリカ政府の支援の申し入れを拒否しました。

近くにいた人が駅のホームから落ちてしまったら、自らの危険を顧みることなく、その人を助けようとするのは、「人の常」です。
もし何かできることがあれば、国籍が違っていようが、人は助け合う本能を持っているように思います。
実際に、公海上での海難事故の場合、そうしたことが起こるはずです。
しかし、領海内の場合は、そうはならない。
「国家」と言うものが、邪魔をしているわけです。
私たちは、その意味を、しっかりと認識すべきです。
「国家」は国民を守る存在ではないのです。
国家が守るのは、「国家」なのです。
そのことを今回の事件は、まざまざと示しています。

もし、韓国政府が、国家の面子や政治的な駆け引きとは無縁に、すぐに全世界に救援活動への協力を頼んだら、あるいはどこかの政府が協力に馳せ参じたら、事態は変わったかもしれません。
それができなかったのは、なぜでしょうか。
日米からの協力要請を受け入れなかった韓国政府は、国民を見殺しにしたと責められても仕方がありません。
しかし、同時に、協力を受け入れられないことに甘んじた日本はどうでしょうか。
責められることはないでしょうが、後味の悪さは残ります。

国家関係ではなく、隣人との関係で考えてみたら、もう少し実感できるかもしれません。
DVのような問題の場合は、勝手に隣家には干渉はできないといわれますが、私はそれもおかしな話だと思います。
そこに、家族制度のおぞましさを感じます。

国家は国民を守るのではなく、国家を守るということをしっかりと認識すれば、政府の言動の意味がもう少しはっきりと見えてくるはずです。
そして、国家がなければ、戦争もなくなるでしょう。
コラテラル・ダメッジというような、おかしな正当化理論もなくなるでしょう。
個人が生きていく上で、国境はないほうがいい時代になったような気がします。
近代国家の意味を、根本から考え直す時期にきています。
家族制度もそうですが。

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