■節子への挽歌2413:確かなのは、いま、ここに、生きているということだけ
節子
韓国で客船の沈没事故があり、多くの高校生たちが閉じ込められたまま、もう5日間も経過しています。
家族の思いはいかばかりかと思うと心が痛みます。
暗い船室に閉じ込められ、救いも来ずに絶望的な生を過ごすとはなんと残酷なことでしょう。
緩慢な死。思っただけでも、心が震えます。
最近になってやっと「死」という言葉を使えるようになりましたが、
死というのはいかにもあっけないものです。
私自身、いまの次の瞬間に死んでしまうことも十分あります。
死んでしまえば、私自身は、たぶん「次の生」を生きているのでしょう。
もちろん、それがまったく存在しないのかもしれませんが、その時には私自身が存在しないわけですから、死もまた存在しないわけです。
しかし、もし私がいるとしたら、「次の生」を生きているといっていいでしょう。
生は、存在する限り永遠です。
でも、生とは、いかにも頼りなく、不確かで、何の保証もありません。
確かなのは、いま、ここに、生きているということだけです。
節子は、それを実感していた。
節子ともっと話して置けばよかったと、最近、痛切に思います。
いかなる哲学者の書よりも、節子は見えていたような気がします。
節子を見送って、6年半、私も少しだけ、そんなことを感じられるようになってきました。
いま、ここを、しっかりと生きるということは、しかし、簡単なことではありません。
そもそも「しっかり」と、とは何なのか。
流れにあわせて、自然に生きるということとも違うでしょう。
いま思い出すと、節子は感謝しながら生きていました。
今日も夜を迎えられたことに感謝。
朝を迎えられることに感謝。
何事も感謝です。
どうしたらそういう気持ちになれるのか。
私には、難しいことです。
節子も、娘たちも、賛成してくれると思いますが、
私は「ありがとう」という言葉をよく発します。
もちろん「感謝」の気持ちがあるからなのですが、感謝して生きるということは、それとは違う話でしょう。
今、ここに、いることを感謝するということですから。
韓国の客船沈没事故の報道を見ながら、思い出すのは、やはり節子との最後の1か月でした。
思いだすと、いまも、心が震えます。
先に船を下りた船長と、私は同じだったのではないか、そう思うと夜も眠れません。
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