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2014/04/09

■節子への挽歌2403:自分の創作世界の中で心を安定させる行為

節子
挽歌をだいぶ書かなかったので、藤井さんが出てきたついでに、もう一つ書くことにします。
おなじインタビュー記事で、藤井さんはご自分が開発されたSR(代替現実)システムでの実験の話をされています。
その実験とは、頭部装着型のディスプレイ装置を使い、目の前の現実映像と予め記録された同じ目線での360度映像を、同じディスプレイで途中で切り替えて見せていくと、記録された過去のシーンと目の前の現実シーンの区別がつかなくなるというようなものです。
そういう実験を重ねてきて、藤井さんは、私たちが実感している現実もまた、すべて脳内現象として説明できるといっています。
極端に言えば、そうした技術を発展させていけば、現実もまた思いのままにつくれるということです。
映画「ソラリス」や「トータルリコール」は、まさにそうした話ですし、1960年代から70年代にかけての日本のSFにも、同じテーマの話がいくつかありました。
それが現実味を帯びてきたというわけです。

もしかしたら私が生きているあいだに、此岸において、節子に会えるようになるかもしれません。
だからといって、会うかどうかは、決めかねますが。

話がまたそれました。
私が今回書こうと思ったのは、そういうことではなくて、現実とはいかにもあいまいなものだという話です。
絶対的に何かがあるわけではなく、僅かばかしの素材を、自分に都合の良いように、物語に仕上げているのが、認識であり体験だということです。
同じ現実を観察しながらも、その認識や記憶は、人それぞれだとも藤井さんは、書いています。
それでは共に生きてはいけないので、共通の尺度を作り上げてきたのが人類だとも書いています。
私のように、そうした共通の尺度や常識になじめない人間にとっても、その仕組みの恩恵は計り知れないほどに大きいです。
しかし、そこからくるストレスもまた大きい。
それを解消してくれていたのが、節子だったと、最近、これも改めて気づきました。

また話がそれました。
あいまいな現実ということを踏まえると、この挽歌で書かれている私の記憶は、すべて創作かもしれません。
事実、娘からはかなり創作だと指摘されています。
私には全くそういう思いはないのですが。
挽歌を書くとは、自分の勝手な世界の中で、心を安定させる行為なのかもしれません。

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