■節子への挽歌2420:夕陽
節子
今日は湯島のオープンサロンです。
節子がいなくなってからも、まあ細々と続けていますが、節子がいたころとは大違いです。
当時の参加者も時にやってきますが、最近は参加する顔触れもかなり変わっていますので、もし節子が久しぶりに顔を出したら、むしろ戸惑うかもしれません。
サロンが始まる前の1時間は、いつも不思議な時間でしたが、それは今も変わりません。
今日は、夕陽がとてもきれいでした。
西側の窓の外の展望は節子がいたころに比べると少し変わりました。
最初のころは、遠くの夕陽がとてもきれいに見えていましたが、今は高いビルの隙間から、季節によって、見えたり見えなかったりするようになりました。
今の季節はかろうじて、ビルの合間に見えます。
夕陽を見ていると、やはり思い出すのは、節子の病気が再発する直前に見た、若狭湾沿いの河野からの夕陽です。
思い出して、その時に書いたホームページの記事を読み直してみました。
なにか淡々と書いていますが、その時の夕陽は私には忘れられないものでした。
お互いにどこかで、もしかしたらこの夕陽を一緒に見る事はもうないだろうと、どこかで思いながら、私も節子も、決して口には出さなかったのです。
その旅行が、私たちの最後の遠出の旅になりました。
湯島から見る夕陽もとてもきれいでした。
2人で夕陽を見ながら、今日は誰が来るだろうと話していたことを思い出します。
夕陽は、一人で見るとさびしくなります。
2人で見る夕陽はなんだか夢があって、私は好きです。
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