■節子への挽歌2401:生きるとか死ぬというのは、他者がいればこその概念
節子
人間は、結局はひとりなのだと、よく言われます。
ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいくとも言われます。
この言葉には、私はまったく同意できません。
人は、どんな場合にも「ひとり」ではありません。
だれかがいればこそ、生まれてこられたし、死んでもいける。
生きつづけられるのも、だれかがいればこそでしょう。
地球に一人残されたら、生きるという意味がなくなるはずです。
生きることと死ぬことさえ、別のことではなくなってしまうでしょう。
生きるとか死ぬというのは、他者がいればこその概念です。
人が、個人としての意識や存在を得たのは、5000年前頃だという説もあります。
言語ができたおかげだとも言われます。
私にはとても納得できます。
それまでは、個としての生とか死とかいう概念はなかったのかもしれません。
いや、もしかしたら、それはそんな古い話ではないのかもしれません。
映画やテレビドラマの時代劇を観ていると、ばったばったと人が死んでいく場面がありますが、当時は、まだ「個の死」という概念が自覚されていなかったのではないかと思います。
そうでなければ、あんなに無造作に人は死んだり殺したりしないでしょう。
家族のために死ぬという場合、その死は、もしかしたら、生きることを意味していたのかもしれません。
先週、友が亡くなりました。
関西に住んでいることもあって、2~3年に一度くらいしか会うことのなかった友人です。
手紙やメールも、年に数えるほどでした。
息子さんが、教えてくれました。
おかしな話ですが、友人が死んでも、私の生活にはほとんど影響がありません。
会う機会が少なくなっただけだと考えることもできます。
これまで多くの友人の訃報を受け取りました。
しかし、最近、誰が死んでいて誰がまだ存命なのか、記憶が曖昧になってきました。
これは「老人性痴呆」のせいかもしれませんが、もしかしたら、そうではなく、存命かどうかはあまり意味のないことであるが故に、記憶が曖昧になるのではないかという気がしてきました。
毎日会うような家族でなければ、生死はあまリ問題ではないのです。
たとえ亡くなったとしても、私の中にしっかりした記憶があれば、生きているのと同じです。
なにやらめちゃくちゃな議論のようにも思えますが、今でも鮮明に記憶している亡くなった友人もいます。
彼は、私の生活の中では、いまもなお生きている気がします。
そういう意味では、節子もいまなお、生きています。
死んでしまったのがさびしいのではなく、会えないのがさびしいだけなのです。
死者と会える方法はないものでしょうか。
孤独死や孤立死も、決して、一人で死んでいくのではないでしょう。
必ず誰かを思い出しながら、誰かに見守られながら、旅立つのだろうと思います。
スピノザのことを、ある本で読んで考えたことです。
スピノザを少し読んでみようと思います。
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