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2014/04/07

■第3の死

しばらく時評を書かずに来ました。
書きたいことが山のようにあったのですが、書いたところでどうなるのかという気分が強まっていました。
あまりにおかしなことが、続いていたからです。
時評を書くことは、ある意味で、自らの感覚を高め、自分の価値観を問い質しつづけることです。
ですからそれなりに疲れますし、その価値観に反することが、どんどんと増え続けていくことに疎外感が強まります。
時に共感したというメールが来ますが、だからと言って何かが変わるわけでもありません。
その一方で、時代はどんどんと大きな流れに沿って進んでいく。
その流れに抗うことは、居心地のいいものではありません。

でも、だからといって、何も言動しなければ、自らに素直でないことにもなります。
隠棲という生き方には、憧れはしますが、私の主義にはやはり合いません。
人の生は全てとつながっているからです。
自分だけ止まっていては、私の価値観では、フェアではありません。

たとえば武器輸出禁止3原則が破られてしまいました。
事実的には、原発輸出した時に、武器輸出は始まりました。
最近ようやくその認識が出てきましたが、原発は武器以外の何物でもありません。
だからそう驚きませんが、しかし胸を張って武器を作り出すことが奨励され、日本もアメリカのような産軍癒着の向うのかと思うと、気が重くなります。

たとえば函館市の市長が国を訴えました。
それにつづく市町村はないのかと不思議に思います。
いやたぶん拍手を送っている市町村の首長は少なくないでしょう。
でもなんで声を上げないのか。

STAP細胞事件はいつの間にか小保方事件になってしまっていますが、それでいいのか。
理化学研究所の人たちの記者会見を見ていると、3年前の東電の記者会見を思い出してしまいます。
全くも、何もかも変わっていない。

最近は新聞やテレビのニュースを見る気も起きません。
こうやって人は死んでいくのでしょう。
社会の動きへの関心を失い、目先の問題にのみ目を向けるようになってしまったら、それは社会に生きているとはいえないでしょう。
クリスチャン・ボルタンスキーは、「人は2度死ぬ」と言っています。
生命的な死が「第1の死」、その人の存在を記憶する人がいなくなってしまう時が「第2の死」です。
しかし、どうも「第3の死」があるようです。
それは、社会への関心を失った時です。

ボルタンスキーの「第二の死」は、生命の死の後もなお、人は生きつづけていることを示唆していますが、私が気づいた「第三の死」は、生命が続いていても、人は死ぬことができることを示唆してくれています。

これがこの数日、ネットから離れていて、気づいたことです。
私の第4四半期の生き方が、少し見えてきた気がします。


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