今回はタイトルが刺激的です。
時評編のほうに書こうかとも思ったのですが、挽歌が2週間ほどたまってしまっていますので、挽歌編に書くことにします。
まあどちらに書くかで、重点の置き方は変わってくるのですが。
この言葉は、高名な経済学者の宇沢弘文さんの言葉です。
フリードマンとは、ノーベル経済学賞まで受賞したミルトン・フリードマンのことです。
金銭市場原理主義と言ってもいいでしょうが、私にはとても受け容れ難い言動の人でした。
宇沢さんが以前発表した論考や講演録などを再編集した「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新報社)を読んでいたら、そこにこんな話が出てきました。
2006年でしたか、フリードマンが亡くなったという知らせを受け取ったとき、私と妻は思わず異口同音に「フリードマンが死んでよかったね」と。(笑)しかし、50年近く付き合っている人を「死んでよかった」と言うのは余りひどいというので、また2人でフリードマンの思い出話を30分間ほどした後、「フリードマンが死んでよかったね」とまた言ってしまいました。たいへん失礼な…。(笑と拍手)
宇沢さんが、ますます好きになりました。
と同時に、こういう会話ができる伴侶のいる宇沢さんがとても羨ましく思いました。
伴侶とは、まさに忌憚なく、こういう会話までできてしまう関係なのです。
最近の夫婦は、会話があまりないという話もよく聞きますが、それでは夫婦の意味がありません。
宇沢さんは、あっけらかんと講演で語っていますが、たぶん夫婦の会話のなかでは、もっと豊かな話し合いがあったはずです。
決して、個人としてのフリードマンの死を不謹慎に語っていたのではないでしょう。
その真実は、もちろん私にはわかりませんが、宇沢ご夫妻の30分の会話に、大きな幸せと羨望の念を感じます。
どんなことを話しても、決して誤解されることのない安心感は、人を幸せにします。
私と節子との会話は、完全ではありませんでしたが、ほぼそれに近かった。
もし宇沢ご夫妻ほどに、私たちの現世での生活が続いていたら、宇沢さんご夫妻と同じように、忌憚なく、そして屈託なく、絶対安心な会話ができたと思います。
そのためにこそ、私たちは結婚以来、隠し事も嘘もない生き方をしていたのですから。
しかし、その死を喜ばれるということもまた、幸せなことかもしれません。
死を喜ばれるほどに、生ききったともいえるからです。
フリードマンの生前の言動は、受け容れ難いですが、死ぬことによって人を喜ばせることができたとは、とても複雑な気分です。
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