■節子への挽歌2426:愛が失われていく時代
節子
またストーk-による殺人事件が起きました。
なんともやりきれない事件です。
私の友人も、いまストーカーに悩まされているので、他人事ではありません。
しかし、愛が殺害につながるはずはありません。
どこかで、何かが屈折しています。
ストーカー殺人だけではなく、DVにもまた同じような構造があるでしょう。
「愛」とは、実に悩ましいものです。
節子には明言していましたが、私は「愛されること」にはあまり関心はありません。
多くの人に愛される生き方をしたいとは思っていますし、愛されればうれしいでしょう。
しかし、それは私がどうこうできることではありません。
「愛」に関して、私ができることはただひとつ、「愛すること」です。
人は「愛する」よりも「憎むこと」に傾きがちです。
人の欠点を見つけるのは、いとも簡単なことでもあります。
にもかかわらず、「愛する」ことは「愛されること」と違って、その気になれば自分でできることなのです。
そして、よく言われるように、愛している人からは普通は愛されるものです。
もし愛されなければ、愛し方が間違っている。
これが、私の愛の考え方です。
だから、私は「愛すること」しか関心がないのです。
ストーカーは、相手を愛していると思っているようですが、愛するということを勘違いしているのでしょう。
そして、こんな言い方をすると怒られそうですが、ストーカー事件やDV事件の唯一の解決策は、相手を愛することではないかと思います。
もちろん、愛するというのは、大きな意味での愛のことです。
言い換えれば、相手の尊厳を認め、相手の不幸を受け容れることです。
社会から「愛」がどんどんなくなっているような気がします。
私が、なんとか健全でいられるのは、節子を愛しているからかもしれません。
だれかを十分に愛することができれば、そして「愛すること」の幸せを体験すれば、多分すべての人を愛することができるようになるはずです。
節子が、そのことを教えてくれたのかもしれません。
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