■節子への挽歌2430:生きることの責任
節子
昨日、しばらくぶりにブログを書いたら、「生きていましたか」とメールが来ました。
いやはや、今やこの挽歌が、私の「生きている証」のようです。
しかし、それは象徴的な意味でも、また現実的な意味でも、事実かもしれません。
「生きている」ことの意味は、単に呼吸をしているだけではないでしょう。
「死に体」という言葉があるように、死んでいなくとも生きていないこともあると言ってもいいでしょう。
しばらく前までの私は、もしかしたらそうだったかもしれません。
もしそうなら、生きていなくとも死んでいないこともあると言えるかもしれません。
こうしたことは書き出したらきりがありません。
しかし、それはたぶん極めて個人的な話になってしまい、文字にした途端に、なにやら危うい話になりそうです。
この数日、パソコンに向かえずに、ブログを書きませんでした。
ブログを書かないと、寂しさに陥りがちな節子のことも不快なことの多い時代状況のことも考えないですみます。
何も考えずに、ただ、いま、ここで、素直に時間に流されればいい。
悲しみもなければ、怒りもない。
この生き方は、ある意味では、実に楽な生き方です。
なににも煩わされることがありません。
時に電話やメールもありますが、いずれも無視すれば無視できないわけでもありません。
そのしわ寄せはいつかくるでしょうが、それまでは平安に過ごせる。
「隠棲」とはこういうことなのでしょうか。
しかし、それは「生きている」と言えるのか。
人は一人では生きられないという意味は、文字通り、一人しかいない場合は、生きていようと死んでいようと同じことだということではないかと、このごろ、思います。
人が生きている実感が持てるのも、生きがいを持てるのも、喜怒哀楽を感じられるのも、すべて誰かがいるからです。
悲しみや怒りがあればこそ、生きていると言えるのかもしれません。
自分の世界に引きこもってしまったら、生きている意味はなくなってしまいそうです。
自分の世界とは彼岸なのかもしれません。
世間がとても嫌いになってきていますが、自らもその世間の一員であることを忘れてはいけません。
この時代を生きることの不快さは高まるばかりであり、それを緩和してくれた節子もいなくなってしまっていますが、自分の世界に逃げるわけにも行きません。
悲しみと怒りのブログを、またできるだけ書くことにしようと思います。
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