■節子への挽歌2438:人を人として付き合うことの大切さ
節子
昨日、久しぶりに畑に行ったら、草が勢いを強めていました。
へこたれそうです。
今日は雨で、畑にいけません。
ますます草は勢いを付けていくでしょう。
困ったものです。
へこたれるのは、畑だけではありません。
人生いろいろありすぎます。
福井から戻ってきたら、また次々と問題発生です。
なんでこうも問題が多いのか。
社会は間違いなく壊れています。
福井であった人たちのように、どうしてみんなもっと素直にゆっくりと生きていけないのか。
福井のシンポジウムの帰りに敦賀に寄ったのですが、翌日、柿の葉というレストランに行きました。
節子も、多分知っているだろう人から教えてもらったと義姉が話していました。
敦賀からはかなり離れているところでしたが、その人の名前を話したら、お店の人も知っていて、そこでその人の話になりました。
敦賀のような地方都市でも、そうした人のつながりが表情豊かに残っているだと感心しました。
この数日、時評編では「社会から人が消えつつある」という話を書いていますが、地方に行って、心がやすまるのは、表情のある人のつながりを感じられるからです。
人を人として付き合うことは、簡単なことなのですが、なぜか多くの人は、そういう生き方から離れているような気がします。
節子が湯島で、私の仕事を手伝ってくれていた時の話ですが、知人の女性経営者が突然訪ねてきました。
近くに来たので立ち寄ったというのです。
迎えに出た節子には目もくれずに、私に話しかけてきました。
帰り際に、節子のことを紹介しました。
彼女は、慌てたように、奥様とは知らずに失礼しましたと態度が一変しました。
奥様と事務員とはどう違うのか。
いずれも人としては、同じはずなのですが。
節子はこうしたことをたびたび経験していました。
ある財界の有名な人がやってきたことがあります。
その人は、節子が私の妻だったとは最初は知らなかったと思いますが、ていねいに節子に話しかけました。
以来、単純な節子は、その人がテレビに出るたびに、私に教えてくれるようになりました。
他愛のない話ですが、人を人として付き合うことの大切さを、私は節子からたくさん教えられました。
節子が私を信頼してくれていたのは、私がだれであろうと、人として付き合おうとしていたからです。
私にとっては、どんなに高名な人も無名な人も同じです。
しかし、残念ながら、時にまだそれが揺らぐことがあります。
節子がいないいま、そうした私の態度を注意してくれる人がいないので、心しなければいけません。
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