■節子への挽歌2443:そとづらのよさが崩れそうです
節子
最近どうも余裕がなくなっているような気がします。
しかも「唯我独尊」になっているような不安もあります。
困ったものです。
人は本来、勝手なものです。
それはよくわかっていて、自分もそうですから、他者の勝手さも、できるだけ受け入れるようにしてきました。
ところが最近、時にイライラして、怒りを発散してしまうのです。
この1週間、たぶん私の電話で不快感を受けた人が少なくとも2人はいるでしょう。
いずれも古くからの知り合いなので、私のことはかなり知っているとは思うのですが、私の対応はいささか過剰だったなと、電話を切ってすぐ後悔しました。
以前は、こんなことはあまりなかったと思うのですが、私自身がやはり余裕がなくなっているせいでしょう。
お恥ずかしい限りです。
以前はなかったと書きましたが、実はそれは家族以外に対して、という条件付です。
節子にもそうですが、娘たちや両親にも、私はかなりきつい物言いをしてきました。
家族は自分と同じだと思うので、そうなってしまうのです。
節子や娘からは相手の気持ちへの思慮がないと、指摘されていました。
大人になった娘は、お父さんは「そとづら」がいいからと言いだしました。
私にとっては、実に心外な言葉なのですが、娘の評価は私よりも正しいでしょう。
私のそとづらの良さは、節子や娘によって支えられてきていたのかもしれません。
もちろん、私自身はそとづらがいいなどとは決して思ってはいません。
家族へと同様、誰にも素直に接してきましたから。
むしろ、節子や家族に接するほうが、ずっとやさしいはずだと思っていますが、娘たちはそうは思っていないのです。
節子は、たぶん思慮がないのは思慮が不要だからとわかってくれていましたが、夫婦と親子は違います。
夫婦は対称性を実現できますが、親子は常に非対称です。
それに気づかなかった私は、親としては失格に近いです。
この頃、そう痛感しています。
不快な電話の話に戻れば、私の暴言は、あまりに相手の人が私の話の真意を理解してくれないことに原因がありました。
もともと私には、物事を極端にいう性癖がありますが、過剰な反応をして、思ってもいなかったことを口に出してしまったのです。
実に恥ずかしいことですが、一度、口から出た言葉は消せません。
慌てて取り繕いましたが、ますます自分が惨めになります。
そして、相手と同じく、自分も不快になって、どんどん滅入ってしまうわけです。
こんな時こそ、節子が隣にいてほしいです。
私の性格の悪さをカバーしてくれていたのが、節子だったのかもしれません。
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コメント
佐藤様 こんばんは
私のそのままを書いていただいたようで・・・
今日も、家内の友人の女性に言ってしまいました。
ただの世間話をしているなかで、「ぼくは人嫌いだから・・・」
今思えば、失礼極まりない言葉でした。
なぜ言葉にしなくてもいいことを、口走ってしまうのか、自分自身が嫌になってしまいます
その女性は私の言葉に対する返答を探しながら、困ったような顔をしておられました。
家内がいたころは助け舟を出してくれましたが、今では相手さんにも自分にも嫌な思いが残るだけです
「分かっちゃいるのに治らない」昔こんな歌が流行りましたが
素直さがなく、相手を受け入れる寛容さもなく、情けないことです。
投稿: 鳥取太郎 | 2014/05/28 00:47